バスは大きな音を立てて出発した。

万里、千歳、智恋、みずほ、そして藤ノ木ふたえが見送る中、
駅前の小さなロータリーから出て行った高速バスは、すぐに小さく、
見えなくなった。

黒鉛。排気ガスの匂いも、すぐに無くなる。

「ふたえさん。帰ろう」

手を振っていたふたえが、名残惜しそうに見送っているのを
みずほが促して、帰路につく。

それまでは、みずほも一緒に手を振っていたのだが、
だんだん気恥ずかしくなって、やめた。

「東京ってどんなところなんだろう」

万里がそうつぶやくと、智恋が答える。

「札幌とそんなに違いは無いと思うけど?」
「川井先輩って東京行ったことあるんですか?」
「いや無いけど」
「えっ……」

万里が絶句すると、智恋は特に気にする様子もなく。

「どんなところっていうから、北海道も何も変わらないって言った。
だって日本語通じるんでしょ」
「人と車が多いらしい」

まるで守護でもしているかのように、智恋の後ろをついて歩いている
千歳が、肩越しに言ったが。

智恋は振り返りもしない。

「人が多い、車が多い、なんでも多いんだねー。でも別に北海道には
車がないわけじゃないし、人がいないわけでもないし」

両手を広げて、空へと向ける。


「大体、有沢高浩だって、私達と何も変わらない、普通の人間だったし」



小暮みずほは、少し離れて、3人について歩きながら。

藤ノ木ふたえの手を引きながら、なんともなしに呟いた。

「高浩は普通じゃない」


3人の足が止まる。


不可思議なことを言った人を、見つめて立ち止まる。

小暮みずほは、両手をぱたぱたと振り、びっくりして続けた。


「ち、違うの。つまり変な奴ってこと」

「そういう意味では変かもしれないな。私や智恋になぜか付き合って
やっていたし」

千歳が納得したように頷いたが、前を歩いていた人間から別な反応が
あらわれる。

「ちーとーせーくん。なぜ私がそこに出てくる?」
「前から言おうと思っていたのだが、白衣以外を着てみたらどうだ?
智恋には多分スカートが似合う気がする」
「いや無いから。持ってないから。着る気もないから」
「意外にいいものだぞ」
「おー出たよ上から目線。千歳先生は男とデートした時にウッキウキで
扇情的なスカートルックでキメてましたから、余裕ですかー」
「いいや、違う」


吉野千歳は、真顔で。

「高浩が似合うと言ってくれたからだ」



川井智恋は、うんざりした表情で、肩を落とした。

「重症だわーこの人」

「何がだ?」

「いや別に」



5人はそれぞれが、これまで一ヶ月間の休みの記憶を胸に秘めている。
これから学校生活が始まっても、ずっと忘れることはないだろう。


それぞれ、家の方角に向かって帰っていった。
みずほも、ふたえと一緒にRailwayへと帰る。


忘れることはないだろう。

そして、
人によっては、卒業すれば常葉町を出て、常葉町とは関係のない
人生を歩み始める事になるだろう。

こんな風に、5人がそれぞれ、互いに背を向けて。



私以外は。


みずほの心は、落ち着かないまま空中を彷徨っている風船だった。

風が吹けばどこまででも飛んでいってしまいそうだった。


それで、ちょっと前に一瞬だけ感じた違和感なんて、すっかり忘れて
しまっていた。


今度は、いつ。

高浩は、いつ来るだろう。


実は、高浩に渡した箱には仕掛けがしてあった。

それに彼が気がつくのはいつだろう。



気がついたことを、言いに来るのはいつだろう?


高浩が帰る前に、高浩の携帯電話の番号を聞いた。忘れ物があったら
連絡するからと言ったら、教えてくれた。

しかし、別に彼にとっての忘れ物など、この町にはきっと無いだろう。


「みずほちゃん。また、近いうちに高浩くんは来てくれる」
「そうですよね」

不意に、ふたえがそんなことを言った。
別に意識せずに、みずほも返した。




そうだ。

昨日のことだった。





ふたえさんは、あの時、断定する口調でそう言っていたな。



オレンジ色の炎を上げて燃えるRailwayを前に、みずほはなぜか、
そんな下らないことを思い出していた。













    <Way to the Blue 51>














白いページが多いノートのスミに書いてある電話番号を
ダイヤルしたのは午前5時ごろ。



なぜか寝付けず、窓の外を見ていたみずほは、Railwayの方角の空が
異様に明るく輝いているのを見つけた。

最初、朝日が登ったと思っていたが、朝日は西から登らない事を
思い出して、外に出た。


冷たい草露が白いズックのシューズを濡らすのも構わずに、
みずほは薄暗い中を走った。すぐに息が上がり、寝不足なこともあって
ふらふらとしてきたが、焦燥感に駆られ、走った。


光は、明らかにRailwayのある場所で起こっていた。

近づく度に確信する。
いや、近づくまでもない。

廃線跡の駅舎を改装して作った喫茶店。回りに他に家などない。


Railwayが燃えている。


バチバチと薪を燃やすような爆ぜる音とともに、何か胸をむかむかさせる
言いようのない悪臭が、あたりに充満している。
建造材ではなく、断熱ボードとかそういうものの燃える匂い。プラスチック
などが燃える匂い。そういうものが入り混じった匂い。

きな臭い、というのは、こういう匂いか。


ふたえは声も出ず、顔に感じる焼けるような熱気に圧倒されていた。


火を消さなければならない。

そう思うまで、10秒近くも棒立ちだった。消す? こんなに燃え上がった
家が、そんな簡単に消えるはずがない。

足がすくんでしまい、動けなかった。
心が絶望していた。

鎮火しなければならないということ。
そして、ふたえを……。



脳裏に浮かんだ名前を、みずほは頭痛とともに繰り返す。
藤ノ木ふたえに、このことを伝えなければ。

何よりも、この店を大切に守り続けたふたえに、
この事実を、伝えなければ……。


みずほは、燃えている事については、正直言ってあまり興味なかった。

ごく古い木造建築であるRailwayが火事になってしまうようなことは、
別に特別、ありえないようなことではない。

深い思い入れはあるが、嘆き悲しむようなことではない。

より深い思い入れがある藤ノ木ふたえがどう思っているか、という
そちらのほうが、より、みずほの意気をくじかせるものだった。


「ふたえさんに、知らせないと……」




実家に寄り、みずほは母親を叩き起こし、
それからふたえの実家へ行った。昨日は夜9時頃にふたえを送っていた。

それから、10時間も経っていないのに、戻ってきた。

ふたえのご両親も眠っていたようだが、あたりは通報から
にわかに騒がしくなり、町の消防車も出動していた。

おそらく、ふたえも気づいているだろう。

みずほがふたえの実家のコンビニエンスストア(夜は閉まっている)から、
燃えているRailwayの方角を見ながら、慌てて出てくるであろうふたえの
声を待っていた。


だが、ふたえの両親である老夫婦が、ふたえの部屋に行っても
そこには誰も居なかった。


そう告げられ、心底――


そう、心の底に、

氷の浮いた冷たい水でもぶっかけられたような感覚を覚えた。




ふたえの両親を押しのけるように、彼女の。大切な人の部屋に向かう。


みずほは、ふたえの部屋に入った。
過去に何度も何度も入ったことがあるその部屋は、みずほの崩壊した
部屋とは違ってきちんと整理整頓されていた。



あまりにも……完璧に――



ベッドはまるで乱れなく、誰かが寝ていたようにも見えなかった。
小さなテーブル。中学の頃から使っているという木製の机と椅子。

空の色で統一されたカーペットも、カーテンも。

まるで乱れがない。ゴミもない。


ふたえは、どこに。


「ふたえさんは、どこに行ったの」


震える。

本気で、身体が震えてくる。


さっきの、燃えるRailwayは、
まさか。

まさか。


まさか。そんな。
そんなこと、あるはずがない。



「まさか……Railwayにいるなんて……そんな事、あるわけがない……」


さっきの異臭。悪臭を思い出して、
みずほは思わず、吐き気を覚えた。

走って外に出て、アスファルト脇。道路横の排水口に倒れこみ、
嘔吐した。



「うぇっ……ごほっ……ごほっ……かはっ……!」


苦い胃液の塊を吐き出し、胃がひっくり返りそうになるような激痛を
まるごと吐き出しながら、
みずほは、嗚咽した。


ここにいないなら、ふたえはRailwayにいるだろう。

もしかしたら、先に火事を見つけていたかもしれない。
それなら行き違いになって――


そんなわけがない。

ふたえは目が見えないのだ。燃えているRailwayに気づけない。もしも、
木材の焦げる匂いで火事がわかったとしても、Railwayだとはわからない。
それに、焼けた臭いは今や、街中に漂っている。

ふたえが火事に気付いたのなら、みずほや小暮美砂……彼女の母親が
呼びかける前に、町の消防団が集まっている。


つまり、これは。

否定のしようがない……。

事実……。


ふらふらと、みずほは立ち上がった。


何かを考えて、そうしたわけではなく。単に、覚えている道を
覚えているように歩いただけだ。海外のゲームによくある、ゾンビのように
その辺をうろつくだけのような感じに。


足をひきずり、ふらふらと歩く。



みずほは、朝の5時頃に、自宅に帰った。
自宅には誰も居なかった。

ゆっくりと、二階への階段を踏み上がる。


自室の扉を開け、扉を後ろ手に閉める。

遠く、消防車のサイレンの音がする。
人々の喧騒も聞こえる。


ベッドに、みずほはもたれかかった。

涙はずっと流れていて、壊れたように流れ続けていて、
シーツにはすぐ、涙のシミが出来た。


ノートを開いたのは、すぐあとのこと。

殆ど、呆然としたまま、コードレス電話の子機を手に
書いてあった番号をダイヤルした。

行動にどんな意味があるのか。


電話をして、どうしたいのか。

小暮みずほは、そんな事を考えなかった。


この時の彼女の心を支配していたのは、恐怖。その一言で、
その恐怖を一瞬でも忘れたい、すがりたいものを選んだのが
その電話番号だった。

意味などわからない。そうしたかった、だから、そうした。


「もしもし」


「高浩、Railwayが、燃えてる……」


みずほは、抑揚なく呟いた。
声が、聞きたい。

自分がどうすればいいか、教えてほしい。

一言、一言が、絞り出すような努力を必要としていた。

単語は次から次へと脳裏に浮かんでくるのだが、それらを意味がある
言葉へと繋いでいこうという制御装置が働いていない。


深い、海の底まで。


「高浩、どうしよう。Railwayが燃えてて、ふたえさんがいないの。
ふたえさんがどこにいったかわからないの。Railwayは、すごく燃えてて、
私は、今うちにいる。怖いよ……! 考えたくないよ……! 何も
考えたくないの……!! 考えたら、すごく怖いの!
高浩、どうしよう……! あ、あたし、どうしたらいいの?」

ショックを受けて、恐慌状態に陥っている。それがわかっていても、
どうすることもできない。どうすることもできないから、怖い。

破裂しそうな情報の奔流、感情の渦潮に、どこまでも飲み込まれていく。


「Railwayに、行った方がいい? そのほうがいい? もしかしたら、
ふたえさんが中にいるかもしれないし、すぐ助けないといけないかな?
でも、もうすごく、崩れ落ちそうなほど燃えてた。
あれじゃ……誰だって……」

電話で話しながら、だんだん体が震えてきた。


こんなことが現実なのか。


実は眠っていて、夢を見ているのか。

教えてほしい。
高浩に。


《……みずほ。大丈夫だ。ふたえさんは、生きてる……》

「!?」


そう言われて、みずほは激怒した。

「そんなわけないじゃない!! じゃあ、ふたえさんはどこへ行ったの!?
適当言ってんじゃないわよ!! 絶対あそこにいるんだもん!!」

怒ったってどうにもならないとわかっているのに。


怒らないと、気絶しそうなぐらい恐ろしかった。
すぐに、謝らないといけにんじゃないか、と、みずほの脳裏の何処かが
冷静な声を上げたのだが、9割型の脳内の騒乱が、かき消してしまう。



《……みずほ……》


電話の向こうの、有沢高浩の声も、どこか、うつろに聞こえた。


《大丈夫だ……。Railwayに火を付けたのは、たぶんふたえさんだから》


ふたえは、それこそ心臓を冷たいナイフで一刺しされたような
感覚を覚えた。

「そんな……なんでそんな……高浩、わけわかんないこと……」

うめき、舌がもつれる。


意味がわからなさ過ぎる。

立ち上がっていなくてよかった。立ち上がっていたら確実に昏倒している。
血が一気にどこかへ引いてしまって、脳は酸欠で赤信号を灯している。
こんな状況で、自分はどうすればいいのか。



だから、それを教えてほしいと願っているのに!!



《……あとで話すから、ふたえさんを探してくれ》

「冷たいよ高浩は! そんな奴だと思わなかった!」

今度は、脳裏のどこからも反対意見は聞こえない。

高浩の気遣いのない態度に、みずほが怒ることは無理がない。そういう風に
みずほ自体が考えている。


実は、高浩もこの時、そう考えていたのだが、それはまた別な問題である。



《落ち着けよ。今は、まだ、ふたえさんは本当にすべきことをしていない。
だから、大丈夫だ》

不自然なほど、電話の向こうの声は冷静だ。
本当に、氷のように冷めている。

「あなた……本当に、高浩?」

今話している相手が、高浩かどうか聞いてしまうぐらいに、
みずほはその印象を、冷たく思った。


なぜ、Railwayが火事になったのにこんなふうに、冷静でいられるのか。

みずほには、それがわからないから。


《ふたえさんは、生きてる。少なくとも、俺がそっちへ行くまでは》



高浩が言った言葉の意味も、よくわかっていなかった。






~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





どこでも、朝日ぐらいは登るものだ。

眼の奥に刺さるような眩しさを感じながら、高浩は身支度を整えた。


「……」

もちろん、今日から学校へ行く、

その準備ではない。


常葉町へ戻る準備だ。

始発の電車に乗るわけではない。
慌てて常葉町へ戻るわけじゃない。


行く所があるし、適当なタイミングで、学校へ連絡する必要がある。

友人にも。



マンションの部屋から出て、スチール製の頑丈な扉を閉め、施錠する。
しっかりと二箇所。


ここに、戻ってくることがあるだろうか。


旅行バックを肩から下げた高浩が、ドアノブを見つめたまま、奥歯を
噛み締めた。


次にこのドアを開くのは誰だ。


俺か。

それとも他人か。


もし、二度と戻って来られなかったとしても、泥棒に全て盗まれるより、
その他人が持っていったほうが役立つものもあるだろう。

鍵を施錠したことを確認し、半歩、後ろに下がった。


ドアを見つめる。

ここに住んだのは4年ほどだったか。

両親と共にいた記憶は乏しい。

それでも、えもいわれぬ感傷が湧き上がってくる。



次にこのドアを開くのは誰だ。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




しっとりとした朝の空気。

涼しげな中に、熱気がマーブル模様で混ざっているような不思議な風。


会社へと向かう会社員。
学校へと向かう生徒。

それらと逆行して歩く。

有沢高浩は。


墓地へと向かう。





色々あって、羽田空港から北海道行きの飛行機へ乗ったのは、午前10時。

翼を広げた大鳥が、空へと向かう階段を駆け上がる。


高浩の胸中に、安堵感が押し寄せた。


Railwayが炎上し、全ての謎が解かれた。
それで、落ち着いているほうがおかしいと思う。だろう。普通は。

だが、全てが分かった時、理解できた時、感じる安堵感は大きいものだ。

高浩が今感じているものもそれだ。



期待が高度を上げ、ベルトサインが消灯する。

携帯電話を開く。

気が付かなかったが、メールが届いていたので、内容を見てみた。



【学校に行けなくなるって聞いたよ。どういうこと? なっつに聞いたよ。
どうして? 急すぎるよ】


高浩はその画面を見ながら、どこか懺悔するような心境だった。

送信者は東京のクラスメイト。戸田茜。
彼女にはあまり言いたくなかった。
なんともなしに、悪いと思っていた。
両親が死んでから、男友達の神保篤典や、下条菜月。そして彼女は、
自分に対して、いつも世話を焼いてくれた。

ある切っ掛けで三人と仲良くなった時から、頻繁にメールを送ってくれる。

控えめで大人しい性格な割には、メールではよく喋るような感じで。

部屋に一人。
落ち込んでいた時にも、いつも孤立しないようにしてくれた。



そんな戸田茜に、返信を出すとすれば。

そうだな。空の上で、電波が通じないけど。



携帯電話のキーを、親指で押した。


【今までありがとう。さようなら】



行かなければならない。常葉町に行かなければならない。

高浩は目を閉じ、訪れる睡魔に身を委ねながら、
意識が深遠に消えていく前に、口の中だけで呟いた。


行かなければならない。


彼女を救わなければならない。


最後の瞬間まで。



――最後のその、瞬間まで――




まばゆさに薄目を開けると、飛行機の窓ガラスの向こうには、
いつのまにか雲海が広がっていた。


それはまるで、青い天界の道のように見えた。



<Way to the Blue 51> END
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その日から、世界は変わってしまった。

波の音、風の冷たさ、太陽の熱、感じられるあらゆるものが
変わらないのに、私達がいる世界だけが変わってしまった。

いや、違う。

そんな言い方は違う。卑怯だ。

変えたのだ。私が。私が。私が!

私が、私達の世界を変えてしまった!

あなたは将来どう思うだろう?

世界を変えてしまった私を見て、どう思うだろう?


私には、責任がある。

破壊されてしまった楽園を見守る仕事。

その先を見る責任が。


もしかして、それは……
絶望と呼ぶのだろうか?

私は誰にも伝えない。

私は何も語らない。

私の罪を誰にも伝えない。

私は何も。

決して、決して、決して誰にも。


私が信じている世界は、

この、青い、どこまでも青い、この世界は、

たとえ破壊されてしまっても、

いつまでも、ここにある……。


この青く、深く、彼方へと続く道。
果てへと続く道。
決して交わることのない、道。

青く、青く……落ちてゆく……。












  <Way to The Blue 50>











思い返してみれば、自分は割と、世間一般的に見れば
不幸な人生を歩んできたのかもしれない。

母親は病弱で、子供の頃から重い病気を患っていた。
父親はカメラマンという職業事情もあったが、母親とあまり
うまくいっておらず、家に帰らない日々が多かった。

一人で過ごすことが多かった。

短い人生の中で、思い出される景色は、
前に住んでいたアパートのベランダで、一人夕暮れを見ていた事。

つまらないことを考えていた。


手元には、アルバム。

中に詰まっているのは、
父親の撮った写真。


そこには、美しい山々と夕焼けが写っている。
何枚も、何枚も。

美しい自然の風景がある。時には、動物や植物もある。

どこで撮影したか、何時に撮影したか、そういうメモに目を落とし、
高浩は小さく、笑った。


「夕暮れには毎日会うことが出来ると思っていました」


有沢高浩はそんな風に、誰ともなく話していた。

「両親に会うことは出来なくても、世界はいつも同じように、日が昇り、
日が沈み、なんとなく繰り返していく。そんな中に一人でいることが、
どこか不思議で、まるで、ええっと、現実じゃない感じがしてました」

「……そうか」


パソコンの画面から目を背けることは無いが、父の古くからの友人は
ため息を隠さなかった。

「高浩くん。君のお父さんはね、それはもう、どうしようもない奴だ」

矢藤という男は、感慨深く、低い声で。
どこか優しげにそう言う。

「有沢浩樹という男は、どうしようもない奴だった。
美人の嫁がいて、賢い子供がいて、カメラマンとしても若くて有望だった。
知名度も人脈もあったし、実際いい写真を撮った。
だが、どうしようもない奴だった」

「それは、どういう事ですか」

3冊目のアルバムを開きかけた所で、高浩は手を止めた。

矢藤も、キーボードを叩く手を止める。

「あいつは、いつでも嘆いていた。いつでもだ」
「……嘆く……?」

ああ、と、矢藤はデスク・チェアの背もたれに体重を預けて、
懐かしむように頷く。


「あいつが30ぐらいの頃か」




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




プリントアウトされた写真が、喫茶店のテーブルに散らばっていた。

「有沢」

矢藤がそのいくつかに赤いサインペンで印をつけながら、
その写真を撮った人間の名前を呼ぶ。

「ああ、どうした?」
「どうして家に帰ってやらないんだ」

打合せは、これまで何度も。

この喫茶店で。

何度も、それも何年と、繰り返してきた。

編集部が近い、ブレンドコーヒーがそれなりに美味い。
人気がない。
食い物がしょっぱくて不味いぐらいで、打合せには十分適している。

そういう喫茶店での打合せで、矢藤はそんなことを彼に聞いていた。


「どうした。突然。帰ってるよ」
「いつもどこに行ってるんだか分からんような髭面で、薄汚れた格好で、
山のように荷物抱えて、それで家に帰ってるように見えるか」
「意外に鋭いな矢藤。探偵になれよ。いい観察力だぞ」

軽口を叩く有沢浩樹の言葉を、矢藤は鼻で笑い飛ばした。

「明日の天気を当てるならともかく、昨日の天気を言えれば
気象予報士になれるのか?」
「なに、気にするな」
「気になんかしてないさ相棒。別に薄汚れてようと写真は
綺麗だからな。もしかして撮影者の姿形を見て、写真のほうが
襟を正してるのかもしれん」
「ま、そーなんだろ」

ぶっきらぼうに言いながら、有沢浩樹はテーブルの写真を眺めている。

「これ、いいだろ。蓼科山からだ。白樺湖がいい感じだろう。
天気が悪くて5日もかかった。気温なんて氷点下だぜ。
普通じゃ撮れない」

「そりゃあ普通じゃないからだろうな。確かに良い写真だ。
おい、有沢。写真のことじゃない。お前、奥方がどうなってるのか、
知ってるのか」

山男同然の髭面の男が、はっきりとわかるぐらい硬直する。

「写真集の話もあるし忙しいのは分かるが、命に関わる病気の家族を
放っておくのは、正直理解できん。小学生の子供もいるんだろうが」
「……」
「お前が取り憑かれたように、日本全国で這いつくばって写真を撮っている
姿、そして撮られた写真は、確かに誰かの心を打ってるかもしれん。
しかし、お前の家族はお前の写真を見てるのか? いや、見てないだろう。
俺がお前の家族なら見ない。見たくもないよ」

「……そう思うか」
「思うだろうな」

多少意地の悪い気分で、そう断言した。矢藤は、打ちひしがれたような
様子の有沢浩樹に、さらに言葉を打ち付ける。

「結局、困ったときに近くにいる人間が良いんじゃないか。帰ってこない奴
よりは、ずっとマシだ」


  がたん


テーブルの上のティーカップが1センチほど飛び上がり、
けたたましく音を立てた。びっくりして、矢藤が見やると
有沢浩樹はテーブルを叩いた手のひらの指を、少しだけ曲げて、
震わせていた。

「俺は、いつだって、誰かのために、やってきたつもりだった」

震えていた。

「だが、実際には誰も救えなかった。誰一人。誰一人だ! 傷を負い、
悲しみ、打ちひしがれ、未来も希望も何もかも失って、苦しんでいるのは
周囲だけだとお前も思うのか!! 俺が何も感じないとでも思うのか!!
俺が帰らないのは……!! 俺が帰らないのは……!」


有沢浩樹が、感情を荒らげたのを見たのは初めてだった。

「俺が壊してしまった世界を、見たくないからだ……!!」


激昂し、立ち上がっていた彼は、静かに座り直し、
悲しそうに笑った。

「誰も見なくていいんだ。俺が本当に見せたい人は、どうせ
見ることが出来ないんだから。だから俺も帰らない。
家にも、どこにも。そう、どこにも……」






~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





有沢高浩にしてみれば、意外な父親の一面だった。

家ではぶっきらぼうな態度しか見たことがない。どこか余所余所しく、
他人の家に来たような姿の父親。

「あいつは変わったやつだった。何年も、十何年も、一人で何かを抱えて
いるように見えた。俺はな、あいつがちょっと可哀想だったんだ。
上から目線の意見で悪いな。気を悪くするな少年」
「いえ、別に」

高浩は笑った。

「父親のことを知らなかったのは本当だし、父親の写真を見なかったのも
本当のことですし、そりゃあ、憐れまれても仕方ないです」

「いやいやそういうことじゃない。俺はな、あいつが抱えているものの
大きさに、あいつ自身が絶望していることが可哀想だったんだ。
人生において悲しいことはなにか。何だと思う?」

「……まだ16なんで、わかりません」

「そうか、少年はまだ16歳か。それなら分からないかもしれないが、
人間ってのは生きていれば、生きてきただけの何かを背負って生きるのが
自然であり、その重みを感じることが幸福になりえるのさ。なぜなら
人は死ぬからだ。死ぬときに、自分の抱えていた荷物の軽さに気づいたら
それは残酷なほどに悲しいよ。だが、有沢浩樹はそうじゃない。
あいつは重い荷物の中に、死ぬときにすら邂逅したくないようなものが
混ざっていることに気づいていた。中身についてはよく分からんが、
あいつの物言いを聞いていたら解ることさ」


薄暗い天井を見上げながら、矢藤は重く言葉を吐いた。

「あいつはおそらく、それを邂逅しながら死んだのさ」






~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




夜。

夜のまっただ中で。



小暮みずほは、夜空を見ていた。

ベッドの上に乗り、窓から身を乗り出すようにして見上げる空には、
丸い月が浮かび、輝く。

蒼い光。


降り注ぐ月の光は、青く透き通り、景色をすべて染めた。

目を閉じても、まぶたで感じられるほどに明るい。


これほどまでに美しい世界の中でも、
小暮みずほには、どこか現実とは思えない。

生があるとすれば。


あるとすれば……。



想う。

いつまで、こんな時間は続くのだろう。
そう長くはない。

時間はやがて、誰かを、誰彼を、新たな世界へと導く。

どんなに面白いゲームにも終りがある。
それは、プレイヤーである自分が終わることだ。

飽きてしまったり、時間を作れなくなったり、
そうして離れていく。
もしくは、そう。
死んでしまったり、とか。


……

……縁起でもない。

まだ死ぬ気はない。
……学校を卒業して、いい感じのニート生活を楽しむ。
そのうち好きなことを好きなだけ始める。

勉強以外の好きなことをやる。

学校を卒業して。

そして……




自分はどこに行くのだろう?

自分は……。


高浩。

そう、高浩。
翼を持つ人。

父親と同じ、翼を持つ人。

有沢、高浩。


私は、なぜ翼が見えるのだろう?
この世界が架空のものだから、そう思えるだけだろうか?

あの人に垣間見た翼は、
空へ駆け出すのを待っているようだった。


羨ましかった。


心の底から、人を羨ましく思った。

その翼から巻き起こる風は、誰に力を与えるのだろう?

本人だけなのか?

それとも、誰の……。





~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





環状8号線。


0時を回り、深夜になっても交通は全く絶えない。
むしろ、大きな音を立てて疾走するスピード違反の車が増え、
大型のトラックが暴風をまき散らす。

広い三車線の道路脇を、矢藤と高浩が歩いている。


小腹がすいたので、ラーメンでも食べに行こうと矢藤に誘われて、
外出した。


真夜中の東京は、夜でも明るい。
特に道路脇は、どこも街灯で昼間のように照らされている。

海も見えないほどの暗闇に包まれる常葉町とは違う。



「おかしなことと思われるかもしれないが」


車の走行音がうるさいせいか、矢藤は大声で叫ぶように、

「少年。なんとなく、君が来るのはわかっていた」

そんなバカな。


「2度しか出版社に行ったことないのに?」


一度目は泥酔した父親を迎えに行った時。
もう一度は、父親の遺品を受け取りに行った時。


「そうだ。高浩くんが来るんじゃないかと思っていた。まさか、
今日だとは思わなかったがね。いや昨日か。ははは」

なぜ。

「なぜかというとだな、君の父親が生前にそう予告していたからだ。
自分が死んだら、高浩くんがきっと会社に来るだろうってね。
お、ラーメン屋はここだぞ。スープが無くなってなくてよかったな」
「父親はなんて?」


無理矢理話を中断させられて、高浩は不快だった。

その話は非常に興味があった。

のれんをくぐりながら、矢藤は言った。



「何をしに来るか分からんが、もし怒っているようなら、代わりに殴られてくれ」




「……は?」


「だとさ。高浩くんが怒ってなくて助かったよ」






~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~






そんなことはわかっていた。

何年も前から、何十年も前から。
ずっと知っていた。

何故、還らない……。
過去はなぜ、還らない……。


耳の奥に残る、蒸気機関車の汽笛。


忘れられた、C62型蒸気機関車の汽笛。


まるで絶叫のようなその汽笛は、ずっと鳴り続けている。


わかっている。

この世界が壊れてしまったことに、嘆き苦しむことは。


だから私は、あえてその世界を見続けることを選んだ。

過去は還らない。


時間が戻ることはない。



《2時40分32秒 ガーガー!!》





~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





夜。

まさに、夜のまっただ中で。


高浩は、最後のアルバムを閉じた。



「……ない!!」



胸の中から溢れ出るような焦燥を感じつつ、呟いた。

「無いって……何が」


ついに、机の上で腕を組んで居眠りしようとしていた矢藤が、
ろれつの回らない声で返してくる。

「常葉町の写真が、一枚もない。これだけ探しても、一枚もない」

「なんだよ……さっき言ったろ。あいつは故郷に何か嫌な想い出が
あるから、帰ってないんだろ……そんな事、わかりきってるだろうが」

「いいえ。わかりきってません」

バン! と、アルバムの表紙を叩き、高浩は興奮した様子で言った。

「写真に興味のない俺でさえ携帯カメラで何枚かの写真を撮った。
俺はこれより美しい景色を何回も見ました。常葉町で」

「それがどーしたんだ……」

「素晴らしい風景がある場所に、プロである人が行かないはずがない。
日本全国、ほとんどの場所の写真がここにあった。それなのに、常葉町の
写真だけがない。すぐ近く。例えば……ほら、これ! 留々辺市の
写真はあるのに! こんなことはありえない。この場所には、バスぐらいで
なきゃ行けない。それなのに、常葉だけ通り過ぎるなんて!」

高浩の主張に、矢藤はぼんやりとうめく。

「そういう気分だったんだろーよ……も、俺眠いんだけど」

「他に写真は無いんですか」

「無いよ。もうここには無い。なぁ、何がそんなに引っかかるんだよ」


高浩は焦りを覚えた。
なぜかはわからない。だが、とてつもなく、心が熱くなった。

涙が零れそうなほど。

なぜだろうか。

なぜだろう。


違うんだ。そうじゃないんだ。
理由もなく否定したい気持ちになる。

……誰に?

……何を?


…………



「俺の親父が、カメラに収めることを躊躇ったりするはずがない」




言ってから、高浩ははっとした。

自分の言ったことが信じられなかった。


そんな事、今まで考えたこともなかったのに。
なぜ、そんなことを。

父親が、何を見ているかなんて。

何をしているかなんて。

そんなことを、考えたことなんてなかったのに。



高浩は、分厚いアルバムに視線を落とした。

この写真たちを見て。
自分の中で、何かが変わってしまったのか。

変わってしまったとすれば、何が?


……いや、そんなことは……今は、どうでもいい。


「だったら、カメラじゃないか。遺品にはいくつかカメラがあっただろ。
中にデータが入っていたのもあったぞ」

「本当ですか!?」

「どこの風景かもわからんし、何枚か見てそのまま……お、おい!」



矢藤の言葉が終わる前に、走り出していた。





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「常葉町が無くなってしまえばいい。俺はそう思ったんだ。
だからそう願った。変わってしまえばいい。何もかもが変わってしまえば
いい。地名が無くなってしまえばいい。海が無くなってしまえばいい。
山がなくなってしまえばいい。土が掘り返されて、川が汚されて、
何もかもが失われてしまえばいい。俺はそう思ったんだ。
そう願ったから、俺はそう願ったから。
あの蒸気機関車だって無くなってしまえばいい。
もっと壊れてしまえばよかったんだ。
完膚なきまで、壊れてしまえばよかったんだ。
錆びついたレールも、草だらけのバラストも、
全て消えて無くなってしまえばよかった。
そして、Railwayだって、無くなってしまえばよかった。
ようやく、その願いは叶うのか」




「俺が、死ねば」


「そうだよ。浩樹君。私はずっと守ってきた。最後に、彼に、
この景色を見せるために。あの時のまま、ずっと……」





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夜が明けようとしている。

長かった夜が、ついに明けようとしている。



朝焼けが照らすもの。

それはいつだって、変わらない朝の風景。



――そうではない。



――そうではない。決して。そうではない。

気がつかないだけだ。

毎日失われているものがある。
変わっていくものがある。
気がつかないだけだ。

そのことに、誰も気が付かない。

本来は、それは罪なのだ。
だから、その変化を残そうとする。

あるいは――忘れようとする。



朝焼けが照らすもの。



高浩の、震える指がなぞる、その先に。



古い父親のカメラの液晶画面に映る風景を見た。


D2Xというその古いカメラの液晶画面は小さく、よく見えるものでは
ない。それでも、その風景。光景に、高浩は目を奪われ、声を失った。



確かに、そこに、常葉町はあった。

父親のカメラに、常葉町が。

撮られたそのままで。

どこにも明かされることなく。


まるで大切な物を仕舞いこむように、

古いデジタル一眼レフの中に、

その景色が、閉じ込められていた。




本当に、ここにあった。



有沢浩樹が、常葉町に行った足跡。それが、誰の目にも触れることなく、
この場所に。

いや、

違うのかもしれない。


誰かの目に触れさせるために、そうされていたのかもしれない。


現に、こうして、有沢高浩。彼が、見ている。

この一ヶ月がなければ、決してその意味を理解することはなかっただろう。

その写真を、声を失ったままで見ている。

そう、理解できなかったはず。





高浩は床に崩れ落ち、そして、叫んだ。

あたりを一切憚ること無く、叫んだ。


意味がある言葉ではなく、ただ、絶叫。
悲鳴と同じ、絶叫だった。





朝日が照らすものは、昨日の続きではなかった。

何分。

何十分。

どれだけの時間。

壊れてしまったもの、変わってしまったもの。

それを、受け入れるだけの時間すらもない。



携帯電話が鳴り、それを、今更ながらに実感する。
変化は止められない。

電話が鳴り続ける。


ある意味では。

止められていたものだから。

もう止めることが出来ない。


電話が鳴る。鳴り続ける。



有沢高浩。彼はその時、思っていた。

自分が変わったのだと。
変わってしまったのだと。


彼にとって、時間が止まったような一ヶ月は終わった。

9月1日。

日付を巻き戻すことは、もう、できなかった。


携帯電話が鳴っている。

鳴り続けている。



止めることは出来ない。



もっと早く。気がついていたなら。

こんな結末を迎えることはなかったかもしれないのに。


過去はもう変えられない。

時はもう戻せない。



還れない。




携帯電話を耳に近づけると、一ヶ月間、ずっと聴き続けてきた
女の子の声が、聞こえた。

まるで、別次元から話しかけてきているかのように。

その声は、歪み、潰れ

壊れてしまっていた。



高浩、は


自分? は…… 俺……は……     オレは?




壊れてしまった、かっもしれない




「高浩、Railwayが、燃えてる……」



そうだ。

きっと、壊れてしまったに違いない。




<Way to the Blue 50> END