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Way to the BLUE 20話(SP)

(20)


ほの暗く、景色が移り変わって行く様を見ることが出来る。

透き通った空色が燃えるような茜に。

茜に焼き尽くされた水平線が、やがて深い闇へ。

そして海のきらめきと同じように、瞬く星。
その海は闇の中へ溶け込んでゆく。

何も知らないままに。
世界の瞬きに、興味もないように。

混ざり合い、変化してゆく空を眺めていた。

やがて何も解らなくなる。
星々の瞬きが、銀月のまばゆい光耀がその境界を照らし出すまで。

何も解らなくなる。そこには二重の影が映り込み、
不安定な揺らめきを見せていた。

――月影があの海に触れる。それは幾度目か。


Railwayのテーブル席。外の景色がよく見える、その席で、
高浩は頬杖をついていた。

「どうしたの。高浩くん。元気ないかな」

  コトン

目の前に皿が置かれる。

「センチメンタルな気分?」

まるで秋の月のように、黄色いオムライスだった。
ケチャップが乗っていない。別にそれは添えられていて、好きに
つけることが出来るようになっていた。

小さな固まりを形成しているケチャップが、まるで赤い花のよう。

「オムライス作ったの。食べてね」

そして、高浩に向かいあうように座った。彼女もまた、頬杖をついて
こちらを見やる。

「……どうしてわかった?」

高浩が訊ねる。彼女は……藤ノ木ふたえは、目が不自由なのだ。

「雰囲気、かな」

はぐらかすように笑う。

「で、窓の外を黙って見てる。当たってる?」
「当たってます」
「そう。ふふっ」

暖かそうな湯気を立てるオムライスを見た。まっさらなケーキのように
綺麗な色をしている。そうか、と高浩は今さら気づいた。

盛りつけたオムライスの中心にケチャップを乗せたかったのか。
しかし、触って確かめることはできないから……。

「いただきます」
「どうぞ」

スプーンを取り、食べ始める。オムライスは、卵がふわふわで、少し
甘いような深みのあるチキンライスと絡むとそれは驚くほど美味し
かった。

それで気を良くしたわけではないが、少なくともやや重かった口も
動き始める。

「ふたえさんは、初めて誰かとデートした時のこと、覚えてる?」

そんな事を訊ねられて、ちょっと戸惑ったような顔で。

「ううん。難しいな。私ね、あまりデートらしいことした事がないから」
「そうなんだ。でも、好きな人はいたんでしょ」
「ええ。いたわ」

恥ずかしがるわけでもなく。いや、つい勘違いしそうになるが
ふたえは、母と同じような年齢だ……。そんな風に見えなくても。

「その人とは二人で出かけたりしなかったの?」
「うーん……そもそも、二人だけでって事は少なかったかな。いつも
誰かが一緒にいたから」
「ふたえさんが好きだった人、今何をしてるの?」

その質問は、少しふたえには辛かったのかもしれない。
尋ねてすぐに返ってくると思った答えは、数秒遅く。

意外なほど、明るい声で。

「もう死んでしまったわ」

聞いて、理解した。
というより、聞かなければ解らなかった自分を、高浩は悔やんでいた。

「……もしかして、親父?」
「もしかしなくても、あなたのお父さんよ。ふふ」

悲しみに彩られるわけではない。
小さく笑って、それを受け入れるしかない。

「ごめん」
「いいの。泣き叫んでも誰も帰ってこないんだから。私が高浩くん
ぐらいの歳だったら、きっとわんわん泣いてたと思うけど。だから
高浩くんが偉いと私は思うわ」
「……」

『受け入れる』ことと、『認める』ことは違うのだろうが。
ふたえは優しく笑っているだけだった。

「(親父のことは……今は、どう思ってるんだろう)」

どっちなのだろう。受け入れたのか、認めたのか。
それとも、誰にも訪れるありきたりな別れの一つとでも認識したのか。

ただ、それをいちいち聞く気にはなれなかった。

高浩は、何も知らない。ふたえが若かった頃も。父親が若かった頃も。

だから高浩は自分の思いを吐露した。今は何もこだわらなくていい。
目の前に座っている人に、言いたいことを言って構わないと思った。

「自信がないんですよ。俺は」
「……どんなことが?」
「明日……」

ふたえは、少し身を乗り出した。おかしそうに。

「何? 明日のデートのこと? ふふっ、どうしたの。自信がないって」
「どんな風にすりゃいいのか、どんな話をすりゃいいのか」
「ああ。それで私に、初デートの話を聞いたりしたの?」
「それもあります」

それ以外にもある。理由は。

「俺、初めてデートをしたのは……中学一年の時で」
「うん。私なんかよりずっと大人ね。高浩くんは」
「茶化さないでくださいよ」
「うふふ、ごめんね。……相手はどんな子だったの?」
「別に……特に、目立ったところのない普通の子です。家が近くて、
昔からよく目は合わせてたけど、一緒のクラスにはなったことなくて。
よく知らなかった」
「ふぅん。幼なじみだったんだ。どんな事したの?」
「渋谷とか行くのも怖いし、吉祥寺の辺りでぶらぶらして、ハンバーガー
ショップに入って、公園行って、そんなもんですよ」

それが、初めてその女の子と二人だけで出かけた時の全てだった。
内容なんて殆どない。小遣いも少なく、大したことが出来るわけでも
ないのだから仕方がないとは思う。

それでも、忘れたことはない。その一日の事を。

「振られたんですよ。その一日で」

単純にびっくりしているふたえの表情を見て、高浩は笑った。

「ただ、話したかった。いろんな事を。いろんな風に。時間が足りないと
思うぐらい話したかったんです。彼女は聞いてくれて、ただ聞いていて。
俺は調子に乗ってどんどん話して……そのうち、日が暮れて」

夕焼けを見ながら、肩を並べて帰った。
その間、彼女に話し続けていた。名残惜しくて。

しかし、彼女が黙っている理由には気づかなかった。

「二人きりでいると、噛み合わないと解ったって。なんだよそれって、
思いましたよ。ただ俺は彼女に、もっと自分を知ってもらいたかっただけ
だったのに。えらく腹が立ちましたよ。もう二度と話すもんかって思う
ぐらい。ただ、その次の日も、その次の日も彼女には会うんです。
その度に、思い出すんですよ。その事を。それでやっとわかった。
ただ自分が、何にも解ってないだけだったって」
「……」

ふたえは高浩を見ていた。見えない目で。
いつも通りの優しげな眼差しで。

高浩はそれだけで有り難いと思った。こんな話、誰にもしたことはない。

「初めてデートした記憶、忘れられないのは彼女も同じだったんです。
いつまでもいつまでも残り続けて……こんな風に、記憶が残ってしまう事
が怖いと思った。千歳さんから電話がかかってきたときも」

千歳からは、つい先ほど電話がかかってきた。
明日のデートには行くと。待ち合わせは9時に、彼女の家で。

ただし、それだけではなかった。千歳の言葉は、高浩にとってその
人生に一度しかない事を思い出させるような。

「『デートには行くけど、きっと楽しくはない。私はきっと、何があっても
頑張ろうと思う。でも、高浩にとっては大して面白くないと思う。幻滅
するかもしれない。だから、帰りたくなったらすぐに言ってくれ』って」

「千歳さんらしいわね。ふふ」

苦笑いを浮かべるが、別にそれがおかしかったわけではない。
同じだと、その時に思っただけだ。

「そんな事になったとしたら、俺はまた嫌な思い出を引きずらなきゃ
ならないんですよ。常葉町に来て、最初の同年代の友達が出来たって
のに。初恋の子と同じように、普通に話すことも出来なくなる」

「高浩くんって、意外とナイーブなんだね」
「なんですか。そんなに図太く見えますか俺は」
「ふふ。だって。なんだか、言い訳しているみたいに聞こえるから」

「……え?」

ふたえは、本当におかしそうに笑い出す。

「だって、千歳さんのことが好きになったときの言い訳をしている
みたいに聞こえるわ。まだ何も始まっていないのに」

そう。まだ何も。
高浩は仏頂面で、オムライスを食べ始めた。

そうだ。今さら言われなくたって。

その初恋の子のことが、本気で好きだったんだと気づいたのは中学を
卒業する頃だった。本当に好きだったから、そのたった一つを悔やみ
続けていた。

今とは違う。それなのにまだ覚えている。



「(あの時には解らなかった。今なら……わかるのに)

窓越しに空をもう一度見上げる。もう、世界は夜に包まれている。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「本当にどうも有り難うございました」

車から降りて千歳は深々と頭を下げた。一緒に車から降りた
みずほと美砂は同じような笑顔を浮かべて手を振る。

「じゃあ、明日は頑張ってねー」

紙袋を持っていない方の手で、千歳はさよならを表す。みずほは
母親の美砂より先に車の助手席に乗り込んだ。

わざわざ高永寺まで、千歳を送り届けて。

「美砂さん。本当にすみません。留々辺まで車を出してもらった
上に、こんな高い服を……一体どんなお礼をすればよいか」

娘が車に乗ったのを見て、自分も運転席に乗ろうとしていた美砂が
笑顔で振り返った。

「あー、全然気にしないで。とっても楽しかったから。自分とこの娘が
ちっとも可愛気がないもんだから、こんな可愛い子の服選びが
出来て、ほんっと有意義だったわー」
「すみません……本当に……」

長い黒髪を垂らして、何度もお辞儀する。美砂は、乗ろうとしていた
車のドアを、バン、と閉めた。自分は乗り込まずに、車に寄りかかって
少し遠くから千歳を見つめる。

「相手は、有沢高浩君、でしょ?」
「……」
「まぁそうよね。千歳ちゃんがこの町の人とデートするなんて、想像も
できないし。あるとすれば彼しかいないわね。ま、察しの悪いうちの
バカ娘はまるで気づいてないみたいだけど」
「……」

千歳は押し黙ったまま、わずかに暗い表情をして俯いている。
美砂は、反対に小さく笑った。

「いいの。何も気にすることなんてない。大丈夫よ。あなたは
思うがままに、素直な気持ちでいればいいの。子供がそんな
顔しちゃダメよ」
「私は、素直じゃないからこんな風に不安で、こんな風に焦燥を
感じて、こんな風に高揚しているんでしょうか……」
「確かに素直な方じゃないかもしれないわね」

そして、そこで。
美砂は表情を入れ替えた。厳しい、強いものに。

「決してそんな顔しないこと。あなたのお母さんが見たら、
『もっと笑いなさい』って言うわよ。きっと」

突然母親のことを出され、千歳は驚く。

「お母さんが?」

「そうよ。あなたのお母さんだったら、喜んで服を買ってあげた。
私はそう思うから、あなたに服を買ってあげたの」

「お母さんだったら……」

母親の印象はまるで残っていない。千歳には、その面影すら。

「お母さんのこと、覚えてるんですね」
「そりゃあ覚えてるわよ。親友だったから」

美砂が母と親友だったなんて、千歳は初めて聞いた。
だから嬉しかった。

母親の存在は朧気で、何も残っていないようにすら思えたから。

初めてデートをすると言ったら、どんな風にしてくれただろう。
どんな言葉を投げかけてくれたのだろう。

千歳は気づく。不安の一つは、きっとそこにあったんだと。


「未来は遠い物じゃない。時間は永遠じゃない」


美砂は、運転席のドアを再び開けた。呟きながら。
そして振り返る。

車に乗り込む寸前に、今度は笑顔で。

「今しなかったら、今度彼と出会えるのは何年後か……わからない。
だから頑張って、明日を精一杯楽しむの。わかった?」

「……はい」

千歳は抱えた紙袋を、ぎゅっと抱きしめた。

「その言葉、忘れません」


美砂は満足したように一つだけ頷き、車の中に身を収める。

走り去っていく車を見送って、千歳は頭を下げた。






……

頭を下げたままの千歳。

自分の愛娘が駐車場でそうしているのを、洸清が見つけたのは
その直後だった。

「……おい。どうした千歳」
「……父上……」

パタパタと草履を鳴らして、父親が近づく。

「帰ってたのか。父上」
「住職の所に行っててな。今帰ったところだが……お前、こんな
ところで何やってんだ」

千歳は顔を上げた。片手で、目のあたりを擦りながら。
その様子を見て洸清は声をかける。

「何だ。どうした。泣いてやがるのか」
「別になんでもない」
「水くさいな。言いたいことがあるなら言え」

千歳はぐっ、と、唇を結んだ。
やや怒ったような、しかし笑っているような複雑な表情で。

「全部父上のせいだ。何もかも父上のせいだ。父上が悪い」

千歳の言い草に、洸清は面食らった。

あー、と、頭をかき、うめく。

「そりゃまぁ、いろんな意味で俺が悪いとは思うが……何のことか
説明もしてくれ」

「父上に、母上を大事にするような甲斐性があれば、私はこんなに
困ったりしなかったのだ。父上の罪は一生許されないほどに重い。
娘の情操教育にも非常な悪影響を与えた。木桧美砂さんに大きな
貸しを作ることもなかった」
「木桧美砂ぁ? 何だ。あいつと何かあったのか」
「美砂さんは良い人だ。私のお母さんと知り合いだった。私は
あの人が一瞬、本当のお母さんのように思えた」

千歳の前で、洸清は露骨に嫌そうな顔をした。

「……あぁ……まぁ……いや……確かにそっくりだったな。色々
やかましいところは……。坊主のくせに酒飲むなとか、いちいち
俺を見つけては説教しやがって……あいつのほうが坊主に向いてる
と思ったね俺は」
「私は父上より、美砂さんの言葉を今後信用することにする」
「おいおい! ちょっと待てよ千歳よぉ」

一方的すぎる言い方で、千歳は父親に背を向けた。

「罪作りな父親を持って、私はとても残念だ。反省を促すために
後で私の私服を見せてやる」
「なんだそりゃ?」
「ちゃんと化粧をして、ちゃんと服を着た私の姿を見たら、父親は
泣くかもしれないと美砂さんは言っていた。だから見せてやる」


そう言って、家の方へと向かっていく。

小躍りするような歩調で、まるで子供のように。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


Awakening


目覚め。

密やかな呼吸。そして冷たい優しさ。痛々しい温もり。

傷。
まるで目に見えない、傷のような。記憶に。影に。

朝陽に。一心不乱に空へ向かうタンポポのひたむきさに。

もう泣きたくなんてなかった。


高浩は目覚めてすぐに、頬を流れるものが涙だと気づいた。

布団の上で寝ているとーらが起きないように、静かに頬を拭う。
夢を見ていた。また、夢を。

それは幸せな夢だ。

一人になってから、そんな夢をよく見るようになった。

人は、失わなければ解らない。
つくづく、哀れな生き物だと感じた。





吉野千歳は朝4時半に目覚めた。

目覚めたと言うより、自分の身体が不思議なリズムで動いていて
反射的に起き上がったという印象を感じた。だが、目覚めてみると
布団も乱れてなければパジャマも普通通りだった。

何も変わらない朝だった。

ただ、まるで眠れた気はしない。
覚醒。そのままで、ひどく短い夜を過ごしただけだった。



<7/29 日曜日>


その日は朝から快晴だった。


朝7時という、普通に考えて早すぎる時間を指定した高浩は
6時半を過ぎたところでRailwayを出る。

服装は特に変わりない。
濃紺のジーンズに白いシューズ。白を基調としたシャツ。
髪型や色々に気をつけた。それだけだ。

あとは、手に持っているとーらをどうするか、だが。

Railwayを出ると、彼女が立っていた。


予定にはない。その人が目の前にいることに驚いたが、高浩は
気を取り直して声をかける。

「おはようございます。ふたえさん」
「おはよう。高浩くん」

にっこりと、朝露にきらめく向日葵のような微笑み。
ふたえは一人、Railwayの出口に立っていた。一体いつから
そこにいたのだろう。

「どうしたんですか。こんなに朝早く」
「渡し忘れた物があったから。高浩くんに」
「なんですか?」

草の匂いと土の湿った匂い。

朝もやが、遠く海を包んでいる。
ひんやりと、肌寒いほどに冷たい早朝。

半袖でふたえは待っていた。寒かっただろうに。

ごそごそと、彼女は肩にかけていた小さなポーチをまさぐる。
そこから紙封筒を取りだした。


「お給料」
「……いや、あの……俺、給料貰うほど働いてないし」
「何言ってるの。お金はケジメなの。仕事したんだから、胸張って
貰えばいいの」
「いやでも、だって」
「だっても何もないでしょ。千歳さんに、美味しいもの食べさせて
あげたくないの?」
「俺だって金持ってないわけじゃないから」
「それは高浩くんのお金じゃないでしょ」

言われ、うっ、と言葉を詰まらせる。
ふたえも、ちょっと顔を暗くした。あまり言いたくなかったように、
辛い目をする。

ぴらっと、封筒を高浩の手に押しつけた。

そして、高浩の手からとーらを取り上げた。

「デートぐらい、自分のお金で行きなさい。そうすれば気分もきっと
違うんだから。とーらちゃんは預かっておくわ。気兼ねなく行ける
わよね」
「……」

無理矢理押しつけられた封筒。

Railwayにお客は大して入っていない。それなのに、居候して、食事も
食べさせて貰って、その上バイト代までなんて余りにも優遇されすぎ
ている。

「じゃあ、もっと厳しくしてください。ふたえさん。そうじゃなきゃ、
給料なんて今後受け取れません」

「ふふ。そういうところ、お姉ちゃんにそっくりだわ。わかった。
でも今日は、一日楽しんでおいで」
「ありがとうございます」

封筒の中には、2万円入っていた。
本当に過ぎた金額だ。

高浩は振り向いて手を振った。

「いってきます」

古びた木造建築。Railwayをバックに、ふたえはとーらを抱いたまま
まるで高浩が見えているかのように、手を振り返したのだった。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



夏の太陽が昇る。

鮮やかな世界。常緑の道。石段を駆け上がると、そこから先には
光の跳ねるような白石の続く道がある。

息を切らして、数十段の階段を駆け上がった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」

力一杯走って、ひりつくような心臓の鼓動に息を乱す。

ひんやりとした風。ふわりと、それが身体を包んだ。かすかに汗ばんだ
全身を癒すように。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

高浩は腕時計を見た。

6時45分。待ち合わせの時間よりも15分早い。

『高永寺』の境内。白玉の砂利がちらばるそこで、膝に手をついて、
高浩は中腰になっていた。

はぁ、はぁと荒く息を吐く。


真正面に立っていた、その人を見て。
ただ、荒らげた息を落ち着かせるまで。

笑っていた。

何かどうしようもなく、面白くて。息を苦しくさせながらもなお、高浩は
笑っていた。

「おかしい……か?」
「ハァ……ハァ……おかしいよ」

彼女は、きっと何分も、何十分も、階段の上で待っていたのだろう。

大きめのラウンドトゥ。膝下までの黒いブーツが見えた。
すらりとした足。そして黒の短いバルーンワンピース・スカート。
モノトーンの色調にアクセントを付ける、腰に回された真っ白な大きい
リボン。

同じ色の長い髪は、腰を巻くのと同色のリボンで、ポニーテールに
結わえていた。

肩掛けのポーチも白。見事なほどに綺麗に揃っている。

呆れるほどに……それは……。

「なんだよそれ、あんまりだ」
「……す、すまん」

ようやく息が整う。

身体を起こして、千歳を改めて見つめた。

「やっぱり……おかしかったか。こんな短いスカート、履いた
ことがない。スカスカして不思議だ」

とてもガッカリしたような、困ったような表情の千歳を。
そして、高浩も表情を戻す。

笑顔ではなく、少しだけ、真剣に。

「なんでこんなに可愛くなれるのに、今までそうしなかったのか、
本当に不思議に思う」

その言葉は本心から言ったのだが、千歳にとってはあまりにも
意外な言葉だったようだ。

「か、可愛い!? 私が!?」

びっくりしたように、胸に手を当てる。

「私が……可愛いって言うのか」
「いや、単純にものすごく可愛いと思うけど」
「それは服が良いという話ではないのか」
「そういう説もあるけど、俺は概ね本体……いや、ともかく総合的に」
「服だろうそうだろう。服は私が選んだわけじゃないんだ。だから
可愛いというのは、服のせいだ。私は可愛くない!」

意地になったように千歳はそっぽを向いた。

高浩は、可笑しくて笑いが止まらないのだが。

それもまた千歳にとっては気にくわないらしい。

「もう! 一体何なんだ。からかっているのか!」
「からかってなんかいない」
「父上もこの姿を見て笑っていた。変なら変と言ってくれればいいのに」

高浩は、首を横に振る。

「あのお父さんだから、素直に言えないんだよ」
「なら、私は……」

ちょうどその時に。

腕時計のアラームが鳴った。7時。
デートの始まりを告げる。そのアラーム音を止めて。

高浩は、頷いた。

「行こう」


千歳も同じように頷く。

二人は石段を下りながら、自然と歩調を合わせていた。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



「ふあぁぁあ、おっはよぅ~」

欠伸をしながら、彼女は一つ大きく伸びをした。猫のように背中を
反らして。

麻のコットンブラウスにジーンズスカートは、まるで常葉町の
空気のように自然で清々しい。

朝9時になる。Railwayの開店札を、みずほがくるりと回した。

「あら。おはよう。みずほちゃん」
「おはようふたえ姉さん」

Railwayに入ってくるやいなや、みずほは問いかける。

「ああ、そうそう。ふたえさん知ってた? 『高永寺』の千歳さん。
今日、デートらしいよ」
「ええ、知ってるわ。そうみたいね。ミルクココアでいいかしら」
「いいよ。なんだ。知ってたんだ」

いつもの席に腰掛けて、みずほはニヤニヤと笑う。

「いやー、あのお堅い先輩がねー。で、昨日お母さんと一緒に服を買いに
行ってたの。で、選んであげたの。モノトーンクロスのかっわいーワンピ
なんだよ。すっごい似合っててさぁー」
「へぇー」

ふたえが、白い陶磁器に入ったココアを両手に持って、同じテーブルに
やってくる。

「美砂さんが一緒に行ってあげてたの。あの人はセンスが良いから、
きっとすごく可愛い服を買ってあげたでしょうね」
「ほんっと、最高に可愛かったよ。あーあ、高浩が見たらさぞかし
びっくりするんだろうなぁ。あ、ありがと」

ココアを受け取り、いただく。
ほろ苦く甘い。深く、オーケストラの重奏のように重なる、良質な牛乳の
コク。

「やっぱおいしいわ。Railwayのミルクココア」
「そうねぇ。高浩くんが見たらなんて言うのかしら」
「可愛すぎて笑っちゃうかも」
「ふふ。そうかも」
「で、高浩は今どこ? 配達? まさかまだ寝てるの?」

カップを片手に、ふたえはきょとん、としていた。

そんなとき、パタパタパタと足音を立てて、Railwayの床を走り回る
とーらの姿が、みずほの目に入る。

「あれ? とーらはいるの? じゃあ高浩もまだ上にいるの?」
「……えっと、みずほちゃん。まさか、知らないの?」
「へ? なにが?」

なぜ昨日、一緒に服を買いに行っていたのに気づかなかったのだろう。
そもそも消去法で考えれば、そのぐらい解るだろうに。

この町で、高浩以外に千歳と懇意な男がいるだろうか?
みんな千歳に遠慮したり、近づかなかったり、つきあいにくい彼女を
敬遠していたりしていたのに。

高浩が来て、突然彼女がデートに行く。その事に、気づかなかったの
だろうか……。

「みずほちゃん……あのね、今日、高浩くんは休みなの。で……
その、デートをしてて」
「は、はぁ!? デートぉ? なに、あいつ、誰と!?」
「い、いや、みずほちゃん。誰もなにも……」
「あんな変態スケベな奴とデートするような酔狂、どこの誰……」

ゆっくりと、手に持っていたカップを置く。

みずほは呆然と、いや、わなわなと震えながら呟いた。口元に手を
当てて。

「乱れていた線が一つに……今、繋がった……推理という名の糸が!」

「みずほちゃん……推理っていうか、多分気づかない方がどうかしてる
と思うわ」

しみじみと、ふたえは言った。

「なんてことなの。こうしちゃいられないわ!!」

みずほはイスを蹴り飛ばして、立ち上がった。

「先輩の貞操の危機が危ない!! いくよ! とーら!」

携帯電話を取り出しつつ、みずほはRailwayを飛び出していった。
なぜかうろうろしていたとーらを捕まえて。

「うおおおおおおおっ!」

騒がしく出て行ったみずほとは対照的に。
一人。

静かに、ココアを飲むふたえ。
今日は天気が良いから、きっとお客も大勢来るだろう。



頬に触れる暖かい日差し。見えなくても、そこに太陽があることを。

「さて、コーヒー豆でも煎ろうかな」



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



みずほは徹底して素早い行動を心がけた。

無駄なく一気に、目的を完了するために。連絡体制を駆使して
準備を的確に済ませたのだった。

みずほの特徴的な部分だった。何かがあったときに、どうすればいいか
考えるのがやたらと速い。それはとてもゲーム的な脳みそだった。

「とゆーわけでよ!!」

出発準備を整えて、助手席に座るみずほ。
『mapple』という地図を片手に、高らかに気合いを入れる。

「今から急いで奴らを追いかけることにするから! みんな気合いを
入れてよ!」

と後席に呼びかける。

「……あの、みずほちゃん。私、あの」

月方万里が、困ったように助手席の背にしがみついている。

6人乗りの普通の、一般的なワゴンタイプの乗用車である。
みずほがチャーターした車というのは。

「運転者のコウおじさん、一丁頼むわね!」
「……いや、あの、説明を先にしてくれると嬉しいんだが」
「説明なんていいの。おじさんは言うとおりに運転してくれれば!」
「いや、あの……」

運転席には月方家の万年単身赴任こと月方浩一郎。彼は今朝早くに
留々辺市から戻ってきたばかりだった。

一週間ぶりに実家に帰れて、家族水入らずで過ごせるかと思いきや
帰宅してほんの1時間で、あっさりと水が入った。

「ハッハッハ、まぁいいんじゃないか。楽しそうでさぁ」

後席にはもう一人。
僧服を着た男がいた。吉野千歳の父親で、吉野洸清だった。

「よろしくぅ」

この人をみずほは呼んでいない。ただ、ついてきたというだけだ。

「ついてきた? 俺はあいつらがどこに行くか知ってるんだぜ?
俺は道案内として必要だろ。第一、俺の可愛い娘を手込めにしようと
してるロクでもない男に、一発ガツンとやってやんねーとなぁ」

洸清は、ニヤリと笑った。

「そうそう。ガツンとやっちゃってください。で二人はどこに」

この時。万里は何となく解っていたのだが。
胸の間でもぞもぞしているエゾモモンガの背中を撫でながら
洸清を見て。

色々なことを思いながら。ただ、それを言い出す勇気もなくて。


そんな風に、横の娘が観察していることには気づかないままに
洸清は言った。


「旭川市神居町だ。さーてハイキングとくりゃ、ビールだな」



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


冗談じゃない。

本当に。冗談じゃない。

いくらなんでもそれはないだろうと、思っていた。



だが、現実は本当に甘くない。

信じられないほどに。

本当に、どうしようもないぐらい。

北海道は……広い。

高速道路を使うとか、バスで行くとか、そういう問題じゃない。


「だから言ったのに。相当時間がかかるぞって」
「いや、でもまさか……朝に乗ったのに着いたら昼前ってのは、
ちょっと予想していなかったな」
「私はどこでも良かったのに。近くでもどこでも」

バスの車内。

気まずい空気を感じ、高浩はとても居心地が悪かった。
北海道の広さを余りにも甘く見ていた。

二人は常葉バスセンターから沿岸バスに乗り、旭川へと向かっていた。
遠泊村のほうからのルートではなく、留々辺市を経由するルートの
路線である。



常葉バスセンター。乗車7時35分。

旭川駅到着。下車11時10分。

全行程150km。峠道あり……。


北海道は広い。

その言葉を軽く見ていた。遠いとか時間がかかるとか、そういう意識を
甘く見ていた。

北海道の人が言う『遠い』は、100km以上のことを言う。
北海道の人が言う『時間がかかる』は、2時間以上のことを言う……。

景色は山奥だった。
留々辺というところの峠らしい。先ほどやっと、高速道路に乗った
ところだった。

「そんなに遠いって知ってたら、やめたんだけどなぁ……」

一人つぶやき、隣を見る。

「……すぅ……すぅ……」

安らかな寝息を立てて、千歳が寝ている。
あどけない寝顔に、ドキリとした。

そして、バスが揺れて。千歳の頭が、高浩の肩に触れる。


千歳は昨日、緊張してまるで寝られなかったせいで今朝からかなり
眠たかったのだ。

高浩は知らないが、千歳はそれですこし機嫌を悪くしていた。

「……悪かったよ。俺のせいだ。ごめん。千歳さん」

寝顔に向かって、小さく謝る。
そして。

「謝りついでに、一枚、記念に……」


こっそりと、寝顔を携帯カメラで撮った。見ていると、心が落ち着く
無邪気な寝顔だった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


ビー!!


大きな音がする。はっとして、目を覚ますといきなり目があった。
頬に残る感触。

バスの車内。ザワザワとあわただしい雰囲気。
まどろむような、眠気。

千歳も目を覚ます。高浩の肩に、完全に寄りかかって。
そして高浩は、千歳の頭に頬を当てるようにして。

そうやって眠っていたと気づいて、驚いて飛び上がった。


バスは目的地に着いたのだ。


「あ、いや、あ、ご、ごめんなさい」

先に謝ることが出来たのは千歳だった。

「いや、こっちこそごめん。その、俺も寝ちゃって」
「私が悪い。私が、誘われたのだから先に寝るなんて。しかもはした
ないことに」
「大丈夫。そんなのは」

シャンプーの匂いか? 真っ赤になっている千歳と、同じ匂いを
頬から嗅いだ。よほど長時間、寄り添って寝ていたのだろうが。

千歳もそう、気づいたような仕草だった。
よほど長くそうしていたと。

「本当に、すまない……私は……」

いいって、と言葉をかけて、高浩はバスを降りた。
だがバスを降りても、またバスに乗らなければならないのだ。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「バスに乗ってばかりだったな」

千歳はそう言って、笑った。

目的地に到着して、まず最初に昼食を食べる。どうにもリズムが
おかしい気がするが、時間も時間出しそういうことで納得しよう。

しかも昼食はカレーとカツ丼。
あまりにもあんまりである。

「いや、気にしなくていい。何を食っても、別に問題はない」

千歳はそう言って笑っているが、高浩も反省しきりだった。

「謝らなくていい。もう既に、こんなに素敵な物を見させて貰って
いる」

そう言って、千歳は高浩を許した。笑顔で。


旭川市神居町のアミューズメントテーマパーク。
『サンタプレゼントパーク』という。

いつでもクリスマス状態の、サンタクロースの公園。併設して遊園地も
ある。そのホワイトテラス。
そこの二階にあるレストランでの食事である。


「不思議な気分だな。真夏にクリスマスツリーを見るのは」

入口を入ってすぐに出迎えるツリー。そして、冬期はスキーゲレンデに
なるという広大な緑の敷地。

スキーリフト以外、何もない公園。高浩は驚いて写真を撮っていた。
夏のスキー場を見るのは初めてだったからだ。

千歳には珍しくもないという。

「そうだ」

高浩はちょっと遠慮していたが、ふと気になったことがあって尋ねる。
カツ丼を食べていた箸を置いて。

「ニコラスっていうのは確かキリストの司教で、サンタクロースの語源
になったってさっき書いてあったな」
「そうらしいな。どうかしたか? 高浩」

千歳もスプーンを置いた。服を汚さないように慎重に食べているので、
とても食べるのが遅い。普段はそんなこともないのだろうが。

「いや、そもそも思い切り仏教の千歳さんを連れてきて、良かったんだ
ろうかって。今更思ったんだ」
「なんだ。そんなことか。私の家ではいつも盛大にクリスマスを祝う」
「本当に?」
「ああ。七面鳥の燻製を取り寄せるんだ。滝上町というところで
作っている大きな七面鳥の燻製が、とても美味い。夏になると父の
友人が予約を受けに電話してきてくれるんだ」
「へぇ……。でも、意外だな。仏教の家でもクリスマスは祝うんだ」
「仏様はイエス・キリストが靴のまま居間に上がり込んできても、
怒りはしない。『靴を脱げ』と言うだけだ」
「ははっ」

食事をして、ようやくいつも通りに話をすることが出来るように
なってきた。

食事を終えると、サンタタウンの中を歩く。

千歳も、明るく笑っていた。


「千歳さん。行こう」

手を差し出す。千歳は少し躊躇った後に、高浩の右手を握りしめた。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


その頃。

「くか~……くか~……」

高速道路を走る車中で、みずほは寝ていた。

というより、後席では万里も。
吉野洸清も寝ている。

運転している月方浩一郎だけが、起きていた。

「一体なんなんだよ……」

そもそも、今になってもまだ何のために運転しているのか解らない
月方だった。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


サンタタウンの中には、色とりどりの装飾が施されたツリーと
世界中のサンタクロースのフィギュア。
雪だるまなどで飾られていた。

ゆっくりと説明を読みながら、高浩と千歳は歩く。

指先だけ。わずかに、指を絡めるように手を触れさせて。

「面白いな。それに、綺麗だ」

冬景色に彩られた一つの町。そんなジオラマの中に封じ込められた
ような気持ちになる。

「高浩は、何か記憶に残るクリスマスはあるか?」
「……記憶に残る、かぁ」

千歳に問われて、思い出す。

「面白かったクリスマスは、ある」
「それはどんな物だったんだ?」

キャンドルライトを模した照明に赤く照らされながら、高浩と
千歳は足を止めた。

「サンタクロースが宅配屋さんだった」
「なんだそれは」
「父親が電話で言うんだ。今年のサンタクロースは宅配屋だって。
何を言ってるのかと思ったら、ドアベルが鳴って、ドアを俺が開けに
行った。するとサンタが立っていた。プレゼントを持ってな」

思い出して、笑ってしまう。

「そして、聞かれたんだ。『サインかハンコをお願いします』って」

「ぷっ、あははは」

「サンタはサインかハンコがないと困るらしい。でも、子供の頃の
俺は大喜びさ。ロボットの模型を貰って、サンタクロースは本当に
いるんだなって感動していたよ」

本当は……。

父親がそうして、来たかったのかもしれない。
だが、やってきたのは宅配屋のサンタクロースだった。

「クリスマスの日も仕事で出ていた。俺と母親は、二人だけで……
いや、とーらと一緒に、二人と一匹でクリスマスを祝った」

千歳は、真剣な表情で高浩を見ている。
覗き込むようにして。

その、まっすぐな瞳を見つめ返しながら。

「俺が覚えている一番古いクリスマスの記憶だよ。7歳の頃だったと
思う。それより前は、わからない。忘れてしまったよ。千歳さんは?」

「……」

千歳。彼女は、話を聞いているうちに次第にうつむいていった。
そして。

「……高浩は……そうか……。私と、似ているんだな……」
「……似てる?」

問い返す。千歳は、視線を伏せたままで。

「幼い頃に父親と母親が離婚してしまった。母親はその後、行方も
知れない。私は母親の面影も知らない。何も……わからない」

「……そうなんだ」

「私も同じような経験をした。父親が遅くに帰ってくると連絡を
受けた。その日はクリスマスイブだった。私は一人で家で待っていた。
やがて雪が降り出して、風も強くなった。風の音が怖くて、私は
泣いていた」

がたがたと揺れる窓枠が、なにか化け物のように感じたのだ。

「子供の頃は、本当に怖がりだったんだ。誰もいない家に一人。
寂しくて辛かった。そしたら、呼び鈴が鳴って」

「サンタさんがきたの?」

「ああ。父親扮するサンタクロースだ。でも、私は父親だと気づかな
かった。父親サンタは、プレゼントをくれたよ。ウサギのぬいぐるみ
だった。でも、私は言ったんだ。プレゼントをサンタの腕に押しつけて」

きゅっと、手を握りしめる。
高浩はそれに気づいた。千歳の言葉の、かすかな揺れに。

「『こんなものはいらない。お父さんを早く家に帰して』と」

笑って、聞いてやろうと思っていたのに。
千歳も笑って話そうと思っていたのに。

二人はただ、立ちつくしたまま。

「すぐに父親は帰ってきたよ。本当にすぐだった。そして泣いている
私を抱きしめて、すまないと謝っていた。雪を被って冷たい父のコート
に顔を押しつけて、私もわんわん泣いていた。なんだろうな。クリス
マスの記憶といっても、一番怖かった記憶しか想い出せない。人は
幸せなときほど、その事を忘れていってしまうのだろうな」

「……それじゃあ、俺も寂しいクリスマスの前には、幸せで暖かい
クリスマスがあったかもしれないんだな」

「ふふ。まぁ、そういうことかもしれないな。いや、きっとあったん
だろう。記憶にはない昔には。私も、高浩も。父親と母親と……」

ふと。
千歳は、高浩とじっと見つめ合っていた。

「幸せな……時間を……」

何か。その、高浩の視線と。そしてその奥に。
吸い込まれるような感覚を覚える。

きっと、そんなことがあった。幸せで、優しかった記憶が。


そんなことも忘れてしまった……。


「……高浩……誰にだって、幸せな過去も、未来もあるんだよな?」

問う。
答えなど見つかるはずはない。それでも問う。

ぼんやりとした、薄明かりの中で。
千歳はなぜか懐かしい気持ちを覚えていた。

そして、高浩も同じように。



二人は、今度はしっかりと手を繋いでいた。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


少し早く、高浩は千歳を連れてサンタプレゼントパークを出た。
そして旭川市街行きのバスに乗り込み、再び駅へと戻る。

まるでそれと入れ替わるようにして、一台の車がパークに到着した。

走り去っていくバスと、入ってくる車。

月方浩一郎が運転する車である。


「やあぁっとついたぁぁ」

情けない声を上げたのはみずほである。

「道を間違えるなんて、どーしようもないんだから。もう、コウおじ
さんは本っ当にダメねー」
「君はずっと寝てただろうが……」

半眼で抗議する月方。
万里は思いっきり車に酔ったようで、青い顔をしていた。

車を降りても、足取りがフラフラしている。

「みずほちゃん。私、車の中で休んでるから……」
「何言ってるの。せっかく来たんだから思いっきり遊ばないと損でしょ」
「みずほちゃん……完全に当初の目的を忘れきってるね……うっ」

口元を抑えてわたわた走り回る万里。

「よっし!! じゃあまず遊園地だね!! 吉野のおじさん!」
「おお、いいじゃねぇか。一緒になんか乗るか」
「あそこにジェットコースターみたいのあるし!」
「よーし、行くか!」

「みずほちゃん……お水……」

疲れてだらっとしている浩一郎をよそに、テンションが高い二人。
ついでにしゃがみ込んでいる

「コウおじさん、フリーパス5人分買ってきて!!」
「……本当に何をしに来たんだ……」

月方浩一郎はわけもわからないまま、5人分のチケットを購入。

5人はこうして、日が暮れるまでパークで楽しんだ。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



高浩と千歳は、旭川駅から北へ向かって散策してゆく。

旭川駅前はかなり市街化されていて、まず西武デパートなどが目に入る
ようになっていた。

ここからは、前に来たこともある千歳がリードする形になる。

「この旭川という町は、札幌にも少し似ているんだ。まっすぐに
道路が延びていて、碁盤の目のようになっている」
「けっこう都会だよな」
「高浩のいる東京には敵わないけど、上川支庁の主要都市だ」
「そういえばよく聞くけど、支庁って?」

緑橋通という広い道を歩きながら、二人はいろんな物を見て、話を
弾ませる。

「支庁というのは北海道の行政区分で、北海道は広いから地方によって
支庁という物に分かれてるんだ。札幌は石狩支庁で、旭川は上川支庁。
さらに大まかに、道央とか、道北とかと分けられる。旭川は
道央・道北と二つの境界線にまたがっているような形だ」
「こっちに来てから、天気予報がやたらと長くて驚いたよ。そういう
支庁ごとに紹介していくから」
「内地はそういう風に紹介しないのか?」
「関東は主要な関東圏の都市しか紹介しないから、あんなに
長くないよ」
「そうなのか。天気予報一つ取ってみても、違うんだな」

西武デパート。

丸井今井。

高浩にも慣れ親しんだデパートが建ち並ぶ、旭川の町。

「デパート、行ってみようか」
「え? 何か買うのか?」

不思議そうにしている千歳に、首を振る。

「何も買わないかもしれないけど、服を見たりするんだよ」

「なぜ?」

別に嫌みでそう聞き返しているわけではないようだ。千歳には本当に
『買い物をしないのにデパートに入る』ということ自体が、意味を
理解できないようだ。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


千歳の手を引いて入ったデパートの中で、高浩は女性の洋服売り場を
見て回った。

千歳は不思議そうにしているが、一着、服を見せる。

「これ、どうだろ」

「……いや、どうだと言われても……着るのか? 高浩」

「俺が着るわけ無いだろ。千歳さんが着たら似合うような気がして」
「私が着る? いや、私は……服は、あるから」

自分が今着ている服を、手のひらで示す。とにかく大事にしていて、
気を使っているようだが。

「それ一着だけじゃないのか?」
「……いや、僧服……とか、制服もある」
「そういうんじゃなくて。千歳さんが出かけるときに着る服だよ」
「私はこんな風に着飾って出かけたりはしない。普段は。だから
服は最低限何着か、あれば困らない」
「じゃあ、今度俺が千歳さんをデートに誘ったらどうする?」

それはとても意外な質問だったようだ。
まるで電気でも受けたかのように、硬直する千歳。

「……ど、どういう、意味だ。それは」
「どういう意味も何も、今度俺が千歳さんをまた誘ったら、同じ服で
来るしかないの? って事だよ」
「……」




彼女は。そんなことが、あるとそもそも考えていなかったようだ。
ありえないことだと、そう信じていたように。

「わ、わからない。その時が来ないと、わからない」

想像だに出来ないように。

「そんなことは考えたことがなかった。これは最初で……さ」

……最後なのかもしれないと。
言葉を詰まらせる。千歳は首を振った。

「もし、今度……そんな時があったなら、その時は、自分で服を買う」
「でもそれなら、俺が選んだ服を気に入ってくれる方が、少なくとも
俺は嬉しいんだ」
「あ……」

ぎゅっ、と、スカートのあたりで手を握る。考えられなかった。

考えてもいなかった気持ち。
想像も出来なかった気持ち。

自分はいつまでも、いつまでも……そんな気持ちを抱くことは、
きっと無いと思っていた。

そしてそれが、必要のない物だと思っていた。

だが……やっと……。


やっと、今になって、ようやく、わかった。


「だから、イメージとして。だよ。イメージの話。もし俺が、千歳さん
をデートに誘って、次は俺が買ってあげた服を着てきてくれたなら、
俺に限らず男ってのはみんな嬉しいんだ。プレゼントって、そういう
もんだろ? 一方的に押しつけるわけじゃなくて……一方通行の
やりとりじゃ、何も生まれないんだから。だからさ、その形が服を買う
事に繋がるんじゃないかなって……千歳さん?」

「……ああ」

ふさぎ込んだりしていてはいけない。
そんな顔をしていちゃいけない。

今しなかったら、今度出会えるのは何年後か……わからない。
だから頑張って、明日を精一杯楽しむ。


『もっと笑いなさい』


「約束……」

え? と、高浩は声を上げた。
千歳は笑顔だった。高浩の差し出した白いチュニックを受け取り、
そして今まで見せたことがない、花のように明るい笑顔で。

その服を自分の肩に合わせて、彼を見ていた。

「約束。必ずまた、私を誘うこと。そ、その……」

かぁぁっと、鼓動が高鳴る。


「『デートに』誘う、ということ」


それ以上、言葉は紡げなかった。
胸元の売り物の服に、顔を埋めてしまいたいほどに恥ずかしい。

「は、恥ずかしすぎる……」


高浩は、頷いた。

「もちろん。また、必ず」

恥ずかしいと、思っていた。高浩も、千歳も。
二人とも恥ずかしくてたまらなかった。それでも……。


決して、嫌な気はしない。むしろ……。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


Railwayはそれなりに忙しかった。

何人かのお客が入り、そして何件かの配達を済ませる。
ふたえは暇なときはとーらと遊んだり、近所の子供から頼まれている
ぬいぐるみを治したりして過ごしていた。

忙しいと言っても、別にその程度でしかない。


既にあたりは、夕暮れに沈んできている。
時刻は17時。

一度、あのおもちゃのような音声時計のボタンを押した。
思い出深い音声時計。丸っこい形の、卵のようなそれを。


絶対的に正確な時間感覚を持っているふたえには、わざわざ必要ない
と言える物だが、大切な物だから。無くす気はない。

そもそもそれは、ある人からある人へのプレゼント。
生涯でたった一つだけのプレゼント。

いや、むしろ……

……忘れ形見。

「高浩くん。どーしてるのかなぁ」

思わず独り言を呟いた。厨房の、スツールに腰掛けたままで。
お客もいない。

一人と一匹だけの店。

そんな時だった。電話が鳴ったのは。

  ジリリリリン!

Railwayの入口付近に設置してある、今は懐かしいピンク色の電話。
それが騒がしく鳴っていた。

エプロンで手を拭いて、ふたえは電話の受話器を取る。

「もしもし。Railwayです」

「ぐすっ……うぁうぁあぁうぅ」

「……もしもし? どちらさまですか?」

「うぅぅぅぅおなかすいたよぅ……ふたえちゃん……」

泣き声から始まった電話。殆ど怪奇ではあるが、ふたえはその声で
すぐに誰だかを理解した。

「絵理ちゃん?」
「そうだよぅ絵里菜だよぅ……おなかすいたよぅ……」

電話の主は、月方絵里菜だった。
今日はどうしたのか。いつも問題は起こすが。

「どうしたの。絵理ちゃん。万里ちゃんはどうしたの?」
「帰ってこないんだよぅ……」

またか。

「また万里ちゃんを怒らせちゃったの? 絵理ちゃん」
「ちがうよぅ……今度はほんとになんにも知らないんだよぅ……」

昨日の今日で、また面倒な事をするほど馬鹿でもない。
……いや、たまにそういう事もするけど。

絵里菜が言っていることを聞いて、とりあえず尋ねる。

「浩一郎くんは? 帰ってきてないの?」

「こーちゃんは、朝なんかいきなり車で出てって……それっきり、
万里ちゃんも……帰ってこなくて……お昼……晩ご飯……おやつ……」

おやつはどうでもいいと思うが。

「うーん。じゃあ、今日は高浩くんがいないから、食事作って
持ってってあげるわ。それまで我慢できる?」
「我慢できるぅ……でも、あんまり遅いともうだめだ」
「ああああ、諦めないで。必ず持ってってあげるから」
「ふたえちゃん……ありがと……」

  チン

電話を切って、深い溜息。

「ふぅ。今日はなんだか、いろんな事があるわね」


病気の母親を置いたまま、一体どこに行ってしまったのか。

ねぇ、と、問いかける。

頭の上に乗ったまま、寝ている様子のとーらに。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



「なんか、すっごく大事なことを忘れているような気がする」

万里は開口一番、言った。
ソフトクリームを舐めながら、である。

「そう。私たちは遊ぶことにかまけて、すっごく大切なことを見落とし
ていたみたいなのよ」

また車中。
車で、今度は旭川市街へと向かう。

運転者の浩一郎以外は、手にソフトクリームを持っている。お金を
出したのは誰か、言うまでもない。

「高浩と先輩を見つけ出さなければならないって事を!!」
「いや、そういうんじゃないんだけど……」

万里は気づいたが、今更気づいても遅すぎた。
後に携帯電話でRailwayに連絡して、事なきを得たのだが
母親への食事を完全に忘れていた事は反省に当たる。

この時点では母親がRailwayに救援の電話をしているとは、思わな
かったが。どちらにしろ、多大な迷惑をかけてしまった。

みずほのせいで!

「はぅぅぅ……いつも流されちゃう私が悪いのかなぁ」
「ううう、せっかく家族水入らずで食事でもと思ったのに……」

月方家の二人がとても元気を失っているそんな中、みずほは
ソフトのコーン部分をバリバリ食べながら。

「沿岸バスの常葉行きバスの最終便、それは18時半! 吉野の
お父さんに告げられていた帰宅予想時刻からして、それは明らか!
駅前のバスロータリーで待ちかまえていれば、必ず高浩と先輩は
現れるに違いない!!」
「現れないかもしれないぜ?」

高らかに言い放ったみずほの言葉に、間髪入れず割り込んでくる
言葉。

「なぁに吉野のおじさん。どういうこと?」
「男女が遠出っちゃあ、お泊まりかもしれねぇだろ」
「なっ!?」

「なにーーーーーーーーーーー!?」

それに飛び上がって反応したのは、みずほだったが。
声は万里も上げていた。

「……まぁ、そういう可能性もある」

車内で大声を上げる二人に、耳をふさいだ吉野洸清。

「そ、そんな、いくらなんでもそんな事は許されないでしょ!?」

「み、みずほちゃん、それ、そうなったらどうするの!?」

「どうするってどうするのよ!」
「ふ、二人は寝るんだよね?!」
「寝るわ! そりゃもう寝まくるでしょ!」
「そ、それはもしかして同じベッドとかで!!」
「同じ布団かもしれないけど!!」
「すっごい寝るんだよね!! 10時間ぐらい寝るのかな!?」
「寝ちゃうのよ!! ちょっと、万里何言ってんのよ!! そんな
わけないでしょ!! 起きてるのよ!」
「起きてて何するの!?」

え、と、みずほは言葉を詰まらせた。

「そ、そんな事……私が知ってるわけ無いでしょ!! とにかく、
急ぐのよ!! コウおじさん!!」
「無茶言うなよ……渋滞してるんだから」

旭川駅へと向かう国道12号線は、渋滞していた……。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



そしてその頃。
高浩と千歳も、急いでいた。

駅へと向かう道を。
二人、走る。

千歳は紙袋を抱き、高浩はその千歳の手を握り。

常葉町に比べ熱さの残る道を、市街を、駅へと走っていた。



時間を間違えていた。そして、道も。



「大変だ! バスが……」

高浩が声を上げたとき、来たときと同じ沿岸バスが駅を出て行くのが
見えた。

「……はぁ、はぁ、はぁ……」

手を離し、そして後ろを振り返る。
肩で息をしている千歳。同じように荒く息を吐く高浩。

乗らなければいけなかったバスは、もう先の交差点にいた。

「俺が追いかけるから、千歳さんは待ってて!」

今なら走れば間に合うかも知れないと思った。
全力で追いかければ、相手はバスだから追いつけるかもしれない。
そしたら少しだけ待ってもらって……。

「待って!!」

走り出そうとした高浩の手を、掴む。

「千歳さん、バスが!!」

先でまだ、赤信号に捕まっているバス。それに乗らないと、
常葉町には帰れない。

走らないと……!



「もういい。高浩……」

「いいって、何が! 置いてかれちゃうだろ!!」

「もういいんだ」

イライラとして、振り返る。
千歳を見ると、彼女は笑っていた。

手で、自分の足下を指さして。そして疲れたように、笑っていた。

「ブーツのかかとが折れた」

二の句が継げない。
そんな中。車が流れてゆく。
バスも一緒に、遠ざかっていった。

荒く息を吐く。そして、尋ねる。千歳に。

「電車で帰れないか?」

高浩はかがみ込んで、彼女のブーツを見ながら言った。かかとが
折れてしまっているが、直す事は出来るだろう。ただ、このまま
歩かせたりするには不格好だし、転んでしまうかもしれない。

千歳は首を振った。

「留々辺までは行けると思うが、そこから常葉に帰るバスがない」

折れたかかとを手に、高浩はうつむく。

「ごめん……」
「なぜ謝る。私が履き慣れない靴を履いていたから、満足に走れな
かっただけだ。高浩は何も悪くない」
「でも、間に合うように帰れたはずなのに。夢中になって、時間を
忘れてしまっていた……」
「それは私も同じだ」

千歳もしゃがみ込む。
往来の激しい駅前の雑踏。その脇で、高浩と千歳は疲れた足を
休めるように。

「本当に、すまない」
「もう謝るな。高浩。誰も悪くないんだ。この事の責任を高浩だけが
感じるなんておかしい。私も楽しかった。私も時間を忘れていた。
だから、こうなったんだ」
「……」
「バスに追いつけたかどうかもわからない。それなのに悔いても
仕方がない」

切り替えるように、と。
千歳は優しく言う。高浩は申し訳ない気持ちで一杯だった。

最後までエスコートしてあげたかったのに。

これからどうしたらいいのか。

「タクシーで帰るってのはどうかな」

高浩は提案してみるが、千歳は首を横に振る。

「とんでもない金額になる。まず無理だ」
「留々辺駅からでも?」
「おそらく、1~2万円かかるだろう。そこまでする意味がない」

そこまでする意味がない?

「心配しなくていい。高浩。どんなに遅くなっても、家に連絡さえ
すれば大丈夫だ」
「連絡って……」
「あの父親だからな。無理なら無理と解ってくれる」

しかし、その無理というのが……。

「今日……帰れないってこと?」

高浩はそう言ってみたが、千歳は……一瞬、言葉を詰まらせた。
それは、つまり。

つまり……。

「……」

高浩は、自分の財布の中身を思い出した。金はある。別に問題は
ない。北海道のホテルは総じて安いし、泊まる分には問題ない。

「……じゃあ、泊まるしかない、かな」

こんな時。
少なくとも、自分が不安そうにしていてはいけないと孝弘は思った。
だから笑いかける。安心させられるように。

「大丈夫。今日、ふたえさんから給料貰ったんだ。だから、二部屋
ぐらい借りても全然問題ないよ」

「……」

「行こう。ゆっくりできるってわかったら、腹減ったしな。どこか
レストランで、ゆっくりご飯を食べよう。その前にホテル探そうか。
確かこの通り沿いに、綺麗なビジネスホテルがあった。そこで二部屋
借りよう。せっかくだから、明日も時間があれば……えっと、常磐
公園だったかな。あそことか見たいな」

「た、高浩」
「ん? 何? 千歳さん」

立ち上がった、高浩の服の袖を。
千歳がつまんでいた。

「……千歳、さん?」

見上げる千歳。見下ろす高浩。千歳は、口元を震わせて。
唇も乾いているように見えた。手も、震えていた。

「た、高浩……その……そんな、勿体ない事はいいんだ……。何も、
気を使わないで欲しい……私は……」


その震えを、高浩も感じていた。袖口から伝わる、彼女の緊張に。

「一部屋で……いい……」


ゆっくりと、千歳は立ち上がり。

「高浩……それで、いいから……」


 すっ……

すらっとした千歳の手。白く伸びる指先が。
高浩の背中に回される。

立ち上がる動作と、まるで同じように。寄り添うように。

それでもわかる。しっかりと、高浩の身体を抱きしめていた。
早鐘のような鼓動も。

伝わってしまうぐらいに近く。溶け合ってしまいそうなほどに触れて。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



「……」

血の気が――引く。
そんな音を聞いたような気がした。

歩行者信号の音。雑踏。車のエンジン音。会話。ただの雑音。

そんな中で。

みずほは佇んでいた。
まるで血を全部抜かれて、そこに植え付けられたかのように。

思わず、自分の身体を……抱く。

……震えている。

なぜかわからない。ただ、震えている。

怖いのかもしれない。

何かが急に、急速に怖くなってゆく。
今まで全くそう思わなかった物が、急激に。

「何……してんの。ばか……」

唇を、ぎゅっと結んで。
みずほは、そう口の中で呟いた。

「……みずほちゃん?」

万里が、みずほの背中から問いかける。突然立ち止まった彼女を
心配するように。

そして、万里も気づいた。

「あ、あれ……あれ?」

その声。万里が気づいた声。
その先にあるのは、高浩と、抱き合う千歳の姿であると。

そしてそれを見た瞬間。

みずほは、いつものようなみずほではなかった、ということ。

「みずほちゃん? あの、いた、よね? 高浩くん」


みずほは、飛び上がるように声を上げる。

「あいつー! なーにやってんだかねー!! 全く!!」

そして、づかづか大股で歩き出す。
一瞬の出来事だった。

ほんの一瞬。

みずほの背中から、何かいつもとは違う感情が見えた。
それは……。

それはもしかしたら、昔のみずほがいつも見せていたような。

『今の彼女が見せないような』

……そういう姿?


思考は中断された。声に。

「くぉらああああ!!」
「うわあああああああああっ!!! って、みずほ!? なんでこんな
所にお前が!?」
「何でこんな所にじゃないでしょうが!! それはこっちの台詞よ!!
最終バスにも乗らないでこんな遅くまで何してんのよ!! どーする
気だったわけ!?」
「い、いや、そりゃあ、帰ろうと」
「どーやってよ!! バスもないのにどーやって帰るってのよ!!
どーせホテルを一部屋だけ借りてとかフラチな事考えてたんでしょ!!」
「聞いていたのか!?」
「聞いてないわよ馬鹿!!!」

バチーン!! と、凄い音が聞こえた。雑踏の中でも聞こえるように。
思わず万里は、肩をすくめる。

その横に、ニヤニヤと笑う吉野洸清が立っていた。

「ははぁん、なるほど。こいつは面白いな」

何が面白いのかよくわからないが、唖然としている千歳と、殴られまくっ
ている高浩と、殴りまくっているみずほを見て、ほくそ笑んでいる。

万里は、嘆息した。
――ああ。やっぱり。

「……けしかけたんですよね」
「ん?」

万里は尋ねるが、洸清はとぼけたような声で。
だが、騙されない。

「言うわけないじゃないですか。どこに行くとか、誰と行くとか。
どんなに鈍い娘でも、普通お父さんにデートの事なんて」
「……万里、そういうことがあったら、言ってくれよ……」

後ろから声が聞こえる。疲れたような浩一郎の声。
万里は特にそれは気にせずに。

「なんか、昨日千歳さんから電話かかってきたときから、
変だと思ってたんですけど。ようやく解りました。もうこんな事、
しないほうがいいですよ。吉野住職」
「へいへい。察しのいい子ですね。月方さん」

手を振りながら、洸清は言う。

万里はもう一度、嘆息した。
結局、あの親に振り回されてみんな余計なことばかり。

母親は飢えて、ふたえさんはご飯を作って、みずほちゃんは……

ああ、面倒臭いことばかり。

それにしても、なぜ昨日アドバイスした服装と、千歳の格好が
まるで違うのか、万里は不思議でしょうがなかった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





「父上……」

びしーんびしーんと響き渡るビンタの音はそれとして、千歳は突然
現れた父親に驚いているようだった。

それは驚くだろうが。驚いても、千歳はいつも通りのように見える。

「よう」

声をかけると、千歳はうん、と頷いた。

「父上。すまん。何だか解らないが、遅くなってしまったな」
「そうだな。まぁそんなこたぁ別にいいんだがな」

本当に楽しそうにニヤニヤと笑う。洸清が、問う。
綺麗に着飾っているが、右足の靴が脱げている娘に。

「なんだその格好は。靴はどうした」
「カカトが折れて、歩きにくいので脱いだ」
「そういう時はなぁ、男に背負って貰うんだよ。ほら」

洸清はそう言い、しゃがみ込む。

「……」

千歳は紙袋を抱え直して、父親の背中に乗った。

「背負われるなんて何年ぶりかな」
「そうだなぁ」

父親の背中を抱きしめて、千歳は笑い出す。

「本当に、なんでここにいるんだ。父上は」
「そんなこたぁどうでもいいじゃねぇか。それより」

重くなった娘を背中に、洸清も笑いながら聞いてみる。

「楽しかったか?」

歩き出す。雑踏の中、車へと。
千歳は何も言わなかった。

ただ、背中で小さく。ほんの少しだけ振り返る。



「反省!! 反省しなさい」
「してるって!! 何だかよくわかんないけどしてる!!」
「してない!! あんたぜんっぜんしてない!!」
「いてっ!! 本当にやめろ!! 俺が何をした!!」
「先輩と抱き合って何してたのか説明してない!! あんた
いっつもあたしが見かけた時には誰かと抱きあってんの、なに!?
どういうことなのよ!!」
「そりゃ概ね誤解だろうが!! いていてっ」

いまだに続いている一方的な暴力を、振り返る。


少しだけ。ホッとしながら。
千歳は頷いた。

「でももう少し、父上が来るのは遅くても良かったよ」


もう少しだけ……だったら。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



夜。

いつもの、湿気を帯びたような冷えた風。海風が吹き上がってゆく。
潮の匂い。

なだらかな斜面の向こうに広がる、漆黒の海。
何も見えない、それでもそこにある海。


キィ……

ややふらつきながら、影がRailwayに伸びる。店内。
ギシッと、踏みしめた足の下から響く音。


高浩は、いつも開いているRailwayのドアを閉める。
そして店内へ。入ると、小さな生き物が飛びこんできた。

「……とーら?」

胸の中に、暖かい生き物がもぞもぞと潜り込んでくる。

「待ってたのよ」


突然、声がかかる。

「ふたえさん……?」

問いかけてばっかりだな、と思った。そういえば今日は、問いかけて
ばっかりの一日だ。

真っ暗闇の中。灯りがまるでないままのRailway。

ふたえは席に座っているようだった。朧気な人影が見える。
まるで幽霊のように。

「もう11時だよ。こんな時間まで……」
「うん」

何かはわからないが。
ふたえは一つ、頷いた。そして立ち上がる。

「今日中に帰ってきたから、まぁ良しとしてあげようかな」

ギシッ……と、床を鳴らして。
ふたえが近づいてくる。

ようやく表情を見取ることが出来るほど近くに、彼女が来て。


握りしめた右手で、高浩の胸をとんっと小突いた。

「でも、連絡くらいはしなさい。遅くなるなら」

余りにも意外なことで、あ、と呟いてしまう。
ただ、それだけ。

「おやすみなさい」

それだけ言って、ふたえは高浩の横を通り過ぎた。

「ちょ、ちょっと待って、ふたえさん」

振り返る。
うん? と、ふたえも。
同じように振り返る。

「ずっと……その、俺、帰ってくる前に千歳さんや、なぜか
迎えに来てくれたみずほとか万里ちゃんとメシ食って……住職も
なんか来てて……それで、遅くなって……」
「うん」

何を言っているんだ……。

「帰ってくる時も車の中で寝ちゃってて、電話を……しなきゃ、
ならなかったのに、それ……忘れてて」
「うん」

高浩は、それでようやく言葉を止める。
じっと、見えない目でこちらを見ているふたえを見返して。

きっとそれを彼女も見返しているんだと思いこんで。


「本当に、ごめん。でもおかげで今日は、楽しかった」

ふたえは、頷いた。

「……うん。それでいい」

なんて優しい声なんだろう。

今更、だった。

気づくのが余りにも遅かった。

ふたえは、心配して待っていてくれたんだろう。それが……。
それが……。



「誰も待っていてくれないし、誰も心配してくれないと……思った?」



小さく笑って。
ふたえはきびすを返す。

高浩にとって、初めての休日。



最後に待っていたのは、優しい。しかし、少しだけ後悔するような、
ほろ苦い一日だった。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



小さく、戸を開く。

微かに室内に光がこぼれる。小さく、聞こえる寝息。

吉野千歳は、いつもより2時間遅れで床についた。そしてそのまま、
すぐに眠りについたのだろう。


千歳は、商品タグがついたままの白いチュニックを
まるで抱きしめるように抱えて、すやすやと寝息を立てていた。


そっと、静かに戸が閉められる。

光が消えて、再び闇が訪れた。




(20)終

(21)へ続く
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