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Way to the BLUE 28話

(28)



ぽかぽかと暖かな日差し。
陽気でお気楽で、のどかで。

そよ風の撫でる屋上。燦々と降り注ぐ朝日。優しく響く波音。
茶色のエゾモモンガは、夏の一日を謳歌していた。

「心地よい一日だ。時間がじっくり流れてゆく」

空を見上げ、流れる雲を少しだけ追いかける。視線の端に、彼の
姿が見えた。

有沢高浩。生まれてからずっと、彼と共に暮らしている。
常に傍らにいるというわけでもなく、適当な距離感でもって。

「ご主人。今日も仕事に行くのか。律儀なことだ。だが律儀である
ことは良い」

ついていくこともあるまい。とーらは、すぐに視線を戻した。
暖かなトタン屋根の上に座り込んだまま、遠く空を見上げる。

「正直さと律儀さは必要だ。その方が人間らしい」

青々とした空には、真綿の雲が浮かぶ。刷毛で描いたような
筋雲も伸びる。ひくひく震える鼻腔に夏の匂いを感じた。

時は行く。太陽は傾ぎ、風もまた。

「さて、行くとしよう」

四つの足で身体を起こし、僅かに身を伸ばした。明るい景色に
慣れてしまっているが、本来こんな早起きでもない。ここは、
自分にとって故郷の一つである。だから、唐突に思い出すのだ。

野生という本来持っているリズムを。

とーらはそれを鷹揚に認める。そして、それに流されることもないと
考える。ここは空気が良い。圧迫感もない。常に新しい風が
吹いている。

走り出した。たった二、三歩。それだけで十分だった。風が見える。
ただ身体を投げ出すだけで、自然に飛び上がることが出来る。

滑るようにして、10メートルほどの屋根の上から空中へ飛び出
した。とーらの身体は矢のように、巻き上がる海風を貫いて突き
進む。

地面が近づく。着地。人の歩いた跡の残る土の上に降りる。

そして駆けだした。太陽の散光が散らばる道から、黒々とした
アスファルトの上へと踏み出す。とーらはいつもと同じように、
丸い身体を伸ばした。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


小さな銀色の器を片手に、ふたえはRailwayから外に出た。
高浩が修理したドアが軋みながら開く。

鼻腔に感じる焼けた夏の匂い。暖かさと、潮風。

ふたえは声を張り上げた。

「とーらちゃーん。ごはんよー」

呼びかけるが、何の音も返ってこない。
足音。小さな足音も、その気配も感じない。

「とーらちゃん? どこにいるの? 高浩くんについてっちゃったの?」

尋ねるが、意味はない。話せるわけがないのだから、意味がない。
ただ、呼びかければ応じてくれるような気がしていただけだ。

そしてやはり、何も起こらない。

「……どっかいっちゃったのかしら」

木の種を山盛りにした餌皿を、玄関に置く。

「ここに置いておくわよー。早く食べないと、モグラさんに食べられ
ちゃうからねー」

その呼びかけにも、返ってくるアクションは何もない。

「もう。知らないわよー。きっと食べられちゃうんだから」

また、ドアが軋む。
夏の爽やかな外気が名残惜しそうに佇むそこから、ふたえの姿も
無くなった。

そこにただ、銀色の器が残されたままで。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「おかーさーん。ごはんできたよー」

ところかわって、木造平屋の一軒家。黒ずんだ古い木が組合わさり
辛うじて家の形をしているような、そんなところ。

黄色いエプロンを付けた背の低い少女が、カンカンとフライパンを
お玉で叩く。甲高い音が中りに響いた。もちろん家の外まで、それは
聞こえている。

何度もその音は聞こえた。そして、声も。

「おかーさーん! あ、ちょっと、また寝てるの?!」

キッチンにいた少女が歩いて行く先。それは殆ど寝室と変わらない
状況になっているリビングだった。ゆりかごのようなイスに腰掛けたまま。
少女の母親が眠っている。

少女――万里はいきなり不機嫌になったようだ。腰に手を当てて、
子供でも叱るように少し頭を下げる。小さな少女が、精一杯に威厳を
見せようとして。

「もう。おかーさん。さっき起きてたのに、どうしてすぐ寝ちゃうの。
朝ご飯食べるって言ってたから作ったんだよ。食べないと材料費が
もったいないでしょ」

どこか鳥が餌をついばむような姿勢にも見える。
その視線の先にいるのは、少女の母親……月方絵理菜である。
くーくーと寝息を立てて、本当に幸せそうに眠っている母親。
それを前にして、少女の目にためらいが浮かぶ。困っているのだ。
怒りたいが、何となく怒れない。根本的に怒るのが苦手だ。
謝るなら得意なのに。

「おかーさん。起きてよー。御飯食べなきゃお薬も飲めないよ」

大声で言いたいところなのだが、寝ている母親の寝顔を見ると
強く言い出せない。18時間ぐらい寝ているわけだから、いい加減に
起きてくれないと寂しい気も少しする。だが、寝かしておいて
やりたいとも思う。ジレンマだ。

「(優しい子だな。料理も出来て、母親想いだ。もう少し強さが
あったなら、もっといい人間になれそうだ)」

とーらはこっそりそう思った。台所のテーブルの下から、そういう
光景を眺めながら。

もちろん入り込んでいるとーらの姿にまるで気づいていないの
だが、別に見つかったとしてもどうでもいい。
驚いて、ネズミが掘った壁下の穴を埋められてしまうかも
しれないので、バレないにこしたことはない。

「お母さん。起きないなら、朝ご飯冷蔵庫にしまっちゃうよ。あったか
トーストも、ひえひえになっちゃうよ。いいの?」

とーらも万里も知らないが、その呼びかけはふたえがしたものと
同じぐらい意味がない。
結局、万里は怒鳴ることも出来ずに根負けした。

「もういいや。あきらめよ」

独り言を呟き、台所へと戻ってくる。リビングと台所には殆ど仕切りも
ないから、振り返ればもうとーらのいる台所のテーブルである。

しばらく、パジャマ姿の裾。万里の足が見えて、それがオンボロ
冷蔵庫の方へと向いた。万里は小麦色の食パンを一つだけ口に
くわえたまま、冷蔵庫に次々料理を入れてゆく。

それにしても冷蔵庫の中身は一杯だ。人間の使うお金というもので
それを買うのだろうが、お金を持っていなさそうな万里の家の
冷蔵庫がなぜそれほどいっぱいなのか、とーらには理解に苦しむ。
冬眠でもするのだろうか? 十分それも可能な気がする。

とーらはテーブルの下から出て、万里が背を向けているときに
彼女の母親の所まで移動した。

「よっ……と」

絵理菜の膝の上に、ぴょんと飛び乗る。

「……」

絵理菜は気づかず、眠ったままだ。
とーらは膝の上に座り、じっとその寝顔を見つめた。

「……先代がお世話になった人。なぜか懐かしい匂いがする」

絵理菜のことは全く知らない。会ったこともないのだから当然だ。
それでも感じる、懐かしいような郷愁。

「長く生きて欲しいものだ……。精一杯、できるだけ」

眠る彼女の手に、そっと前足を乗せた。
祈るわけではない。ただ、願望として。

「また会いに来ます」

それだけ言うと、とーらは膝から飛び降りた。
素早く身を隠しながら万里の背後を駆け抜けて。
湿った泥にまみれながら、壁の隙間をすり抜けた。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


油の匂いが漂ってくる自動車整備場。『河井モータース』
その軒先には、白衣を羽織った女の子が何やら、天体望遠鏡を
設置している。

真っ昼間の店先で、妙なことを始めている彼女を、まばらに通る
町の人が怪訝そうに見ているが、彼女はもちろん何も気にして
いない。

河井智恋は満足そうに頷いた。

「まぁこんなものね」

白い望遠鏡。どこにでも売っているものだ。珍しいものではないが
真っ昼間に使っているのは珍しい。星が見えるわけでもない。

ちょうどそんなところに、有沢高浩が通りがかった。メールや荷物が
詰まったザックを背負って、慣れたように軽快に歩いて。

ぱたり、とその足が止まる。

視線の先には河井智恋がいた。

高浩はしばらく、何か危険な動物に出会ったかのように視線を
重ねていたが、やがて無言で回れ右をした。

「ちょっと待ちなさい! 有沢研究員!!」

びくっと、有沢高浩の背中がわかりやすく硬直する。

「なぜ逃げようとしたの。私を見てから逃げるなんて、常識的に
考えれば、私にいらぬ誤解を与えることになりかねないわよ」
「……すっげぇ常識的で良いことだと思うわそれ」

苦々しくぼやきながら、高浩は渋々振り返った。5メートル程度か。
微妙な距離感を保ちながら、高浩は彼女に声を掛ける。

「またなんか、変なことやってんですか」
「変な事って何。科学というのは変なことでも真面目に追求する
ことが大事なのよ。でもこれは何も変な事じゃないわ。何が変なの
か、言ってみなさい」
「真っ昼間に天体望遠鏡持ち出していることが変じゃないの?」
「なぜそれが変なのか説明しなさい」
「だって、星も月もないだろ」

3メートル。ほんの少しだけ近寄って、高浩は言った。空を少しだけ
眺めて、何もないことを確かめる。

見上げれば、空だけがそこにある。どこまでも続く青い空。白い雲。
暖かな光を放つ太陽。

「星がない? あるじゃないの。星なら」

智恋も空を見上げた。すぐに視線を戻したが。

「どこに?」
「あそこよ」

智恋がまっすぐ、人差し指だけで指し示した方向。
そこには太陽があった。

「太陽は星よ。天体観測して何が悪いの」
「望遠鏡で太陽を見たら、目が潰れるって話じゃなかったっけ」
「太陽の観測方法も知らないと思ってるの? 随分愚鈍に見られた
ものね私って」

智恋は望遠鏡のスコープの部分を指さした。コンコンと、人差し指で
そこを叩く。

「フィルターが入ってるから眩しくないわ」
「……で、太陽を見てどうするの」
「太陽ってのはね、化学反応で輝いてるの。巨大な核融合反応の
固まりなわけ。それを観察すれば、核融合のヒントが得られるかも
しれないってわけよ」
「……核融合って……そんなこと考えてるのか?」
「なによぉ。核融合って格好いいじゃない。無限のエネルギーよ。
それさえあれば多分電気代とかタダよ。素晴らしいことじゃない」
「危険だろ」
「別に危なくないわよ。バケツにお水汲んでやってるから」

花火じゃあるまいし。

「素晴らしいわよ太陽は。燃え盛る巨大な火の玉。スケールの
大きいところとかたまらないわねー。核融合ってね、錬金術なのよ。
核融合で別の金属とか作れるのよ。実現したらなんでも作れて
きっと楽しいわよぉ」

望遠鏡のスコープを覗き込み、智恋はうんうんと頷く。
高浩は疲れたように。

「じゃあ俺のテレビも錬金術で作ってくれればいいのに」
「なによぉ。そんなことまだ根に持ってるの。ちっさい人間ねぇ有沢
研究員は。そんなんじゃモテないぞ」
「余計なお世話だ」

ぱっ、と、望遠鏡から目を離して、智恋は笑顔を見せた。
やや細めの眼差しを、少しだけ丸くして。

「研究員も見てみなさいよ。面白いわよ」
「いいです。まだ配達中だし」
「何言ってるの。研究は何よりも優先されるのよ」
「嫌だっての。ちょ、ちょっと」
「こっち来なさいよ! 遠慮なんかしないで」
「いいってば。ちょ、いててててててて!!」

高浩の頭にヘッドロックをかけるようにして、ずるずる引きずっていく。
すごい力である。高浩は苦しそうにばたばた両手を暴れさせているが
全く歯が立たないほどに。

「痛い痛い痛い!! ぐああああああああっ!!」
「もー、そんなに痛くしてないのに大袈裟だなぁ」
「本気で痛いわ馬鹿たれ!! あっ頭蓋骨が軋んだぞ今!!」


とーらはそんな光景を、河井モータースの真正面の家から眺めて、
そしてまた、走り出した。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


森。

湿っぽい土の匂いが、木々に包まれて充満する。何年もの間に
降り積もった木の葉が腐り、柔らかな寝床のように敷き詰められて。
樹液の匂い。雨の匂い。朽ちた草の匂い。そして若芽の匂い。
死と生がすべて存在する森。

ぱき、と、道の小枝を踏む音がして、とーらはそちらを振り返った。
人間の足音である。警戒するほどのことはなかった。その足音には
聞き覚えもあったし、何より『その匂い』がした。

その人物は立ち止まり、涼やかな声を上げる。
透明感のある声で。

「地面にエゾモモンガか。珍しいと思ったが、とーらと言ったかな。
高浩と一緒に来た」

とーらを見つめて、彼女はほんの少しだけ笑う。
赤の簡易的な法衣を身に纏い、輪袈裟をかけた黒髪の女性。

吉野千歳だった。

「どうしたんだ、こんな所で。歩き回ると、罠にかかるぞ」

裾を汚さないように気を付けながら、しゃがみ込む。とーらに対し、
優しく声を掛けながら。

「お前は、人なつっこいな。私が怖くないのか?」

指を出してくる。白くて綺麗な細い指。
とーらの頭に触れ、ぽんぽんと撫でる。

怖い、怖くないという感覚自体がとーらにはなかった。人を恐れる
意識自体がないから、理解も出来ない。
何しろ……そうだ。

「高浩は何をしてるんだ? お仕事中か? お前はひとりぼっちで
寂しいか」

言葉というのは、自分から相手に発するだけの物ではない。
自分に対し確認するためのものでもあるのだ。

なぜ自分の声が聞こえるのか。考えれば、そう理解できる。
とーらも思った。寂しいかと問う彼女は、寂しいと感じているのかも
しれない。無意識にか。有意識にか。

「私は、どうも最近集中できないことがある。さっきも香を焚いて、
心を静めようとしていたのだが、どうしても胸が騒ぐのだ。これは
何なのだろうな。何かがしたい。何をしたいか、わからないのに。
私は何がしたいのか、私は、何が知りたいのか……」

傍目からも、彼女の悩みの深さは伺い知れた。
とーらは千歳の人差し指を前足で掴み、ぺろぺろと舌で舐める。

思い悩んで、辛くなるのは人間らしいこと。
楽しくもあり、辛くもあること。

「高浩に尋ねたいと思うんだ。不思議だな。彼に聞きたいことが
たくさんある。でも、聞くべきではないような気もするのだ。とーら、
お前はどう思う?」
「……」

とーらは答えなかった。
高浩はきっと、千歳と同じように考えているだろう。高浩はそれを
放っておけない。性格的に、それをそのままにしておけない。

難儀なご主人だ。

だから、きっと何も心配いらない。

「あっ……」

千歳の悩みは、きっとご主人が聞いてくれる。そして答えを出す
だろう。それが正しいか、間違っているかなどはわからないが。

だから、駆けだした。

これ以上彼女と話すこともない。することもない。
とーらは、一気に走って山を駆け降りる。

「……っ……」

千歳の言葉が、森のざわめきにかき消される。

彼女はしばらく、森の風に包まれていた。まだ青い木の葉が
はらはらと舞い散る。

「モモンガに尋ねても、お門違いだな」

苦笑して、千歳はとーらとは反対の方へと向かう。
山の奥へ向かう道を。心地よい澄んだ風に包まれながら、
ゆっくりと歩いていった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


その墓には、いつも新しい花が供えられている。

その墓には、いつも常葉町の風が触れている。

とーらはその墓の前で、一瞬だけ立ち止まった。

微かに思い出す記憶。そして時間。とーらはまるで飛び越えるような
気持ちで、その記憶を振り切った。

その墓に眠るのは先祖。
その墓に眠るのは、ご主人の父親。

ただそれだけだ。感傷に意味はない。感傷に意味なんかないのだ。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「あれ、あんたいつの間に帰ってたのよ」

銀の器から、木の実を手に取りつつ食べているところで、上からそう
話しかけられた。Railwayの玄関から、身体を少し出している少女。

横で結んだポニーテールの少女が、とーらを見下ろす。

「ふたえさーん。モモンガ、戻ってきてるよー。木の実食べてるー」

くるりときびすを返し、少女はRailwayの中へと入ってゆく。
掃除でもしようとしていたのか、その辺にほうきを置いたままで。

Railway。
時刻は12時を迎えようとしている。

そろそろ、高浩も配達を終えて帰ってくる頃だろう。それを待ちかまえ
るつもりなどない。ただ、もっと見ておきたいと思う。

どんぐりを頬張りながら、とーらは耳を澄ました。
足音が聞こえてくる。それは弾むような、軽やかな足取りで。

玄関の扉が、再び開く。今度はとーらを気にすることもなく、少女は
誰かを捜す仕草をした。少しだけ期待するような、そんな眼差しで。

やがて、足音が大きくなる。少女は、わざとだろうか。
不機嫌そうな声を出した。どうでもいいような、そんな表情で。

「あ、高浩も帰ってきた。お帰りー。おつかれ。遅かったじゃん」
「大変だったよ。智恋さんに捕まってさ」
「ふーん。ま、私には関係ないけど」
「お前な。少しは労れ」


少し汗をかいて、疲れたような高浩が足元を見やる。その視線の
先に、とーらを見つけて。

「とーら。ただいま。飯喰ってるのか」

そう。彼は言う。

「きぃ(ご主人、お帰り。早かったな)」



空は華やかに晴れ渡っている。今日は、少し暑くなるような気がした。




(28)終

(29)へ続く
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