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Way to the BLUE 29話

(29)


グラスを拭いている。

高浩はグラスを手に取り、それにシルクのクロスを擦り付けていた。
ゴブレットグラス、タンブラーグラス……。

使い込まれたシルクのクロスで磨くと、魔法でもかけたかのように
曇りが取れてゆく。高浩はこの仕事は好きだった。

配達をしに行くのも嫌じゃないし、仕込みが終わっているものであれば
簡単な調理や、ふたえ並みに美味しいコーヒーも淹れられるように
なった。

だが、高浩はこの仕事が好きだった。ただ、グラスを磨くことが。

窓の外を、正午の太陽が照らしている。店内には、高浩一人しか
いない。無音。その中でグラスを磨く。

際立ってゆく無色透明。宝石のように反射するのではなく、しっくりと
周囲に溶け込むような無色。

高浩は厨房に立ったまま、ただ、グラスを磨いてゆく。時々、窓越しに
見える色鮮やかな青空を透かして見たりする。

Railwayにあるグラスや皿は、高浩にはよくわからないが良いもので
あるらしかった。ノリタケのボーンチャイナとかそういうものらしい。
グラスも透き通っていて綺麗だった。


『高浩』


ふと、グラスを手に思い出してしまう。
あまり数多くない父親との会話。いつしか、よそよそしくなった父親と
交わした言葉。

『物の価値を理解できるようになれよ。それがいいものか、悪いもの
か、すぐに見分けなきゃダメだ。良いと思ったなら、それは大切にしろ。
飾るなり、仕舞うなり、常に持ち歩くなりと、方法はどうしても構わん。
ただ、良いと判断した理由を忘れるなよ。どんなことにも、理由が
必要なんだ……明確に、それを良いと言える根拠が……』

見る目がある人が羨ましいと思う。
それは経験から来るものだとわかっている。今の自分がどんなに
欲しくても手に入らないことも。

父親は写真家だった。有沢浩樹、その人は良いと思った物を写真に
納めてきた。個展を開いたので見に行ったこともある。
風景写真ばかりで退屈だった。

拙い記憶を思い返してみれば、その写真には青が多かった。そう
記憶している。

花の青、空の青、海の青。
そして――

高浩は磨いたグラスを、また窓の方へかざした。
透き通った透明のグラスの向こうに見える青。空、そして海。

まるでそれは、青の世界へ続く道のようだった。

もしかしたら、父親はそれに魅入られたのかもしれない。
この、北海道の自然。常葉町の中に存在する、汚れなき青に。

グラスを磨く。ただ、黙って。しかしすこしだけ、ため息をついて。


父親と、もっと話せれば良かったのに。
もちろん母親とも、もっと一緒に過ごしたかったのに。

二人ともあっさりと死んでしまった。仲の良くなかった二人だが、
死んでしまうときは一緒だった。

そういえば離婚を勧めたこともあった。
母親は拒否していたが。悲しそうに首を横に振って。

「青、か……」

思わず、高浩の口からこぼれた言葉。青。

母親の愁いを帯びた表情は、青の悲しさを宿している。
草笛がかき鳴らすブルース・コードのような悲愴がにじむ。

悲しそうな母親。背を向けてばかりの父。

故郷の空の、容赦のない青さ。

透き通るグラスの絶対的な美しさ。

さまざまな記憶。
さまざまな想いが、じん、と無音のRailwayに広がるような気がする。


グラスを磨く。高浩は、それが好きだった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


  ばん!!

「大変なの!!」

転がり込むようにして女の子が二人、店内に入ってくる。勢いよく、
まさに飛び込むようにして。

せっかく直したドアが壊れそうだった。

「大変なのよ! 大変!」
「ぁあぁああぁ」

飛び込んできたのは、木桧みずほだった。そしてそれに引きずられ
ながら、続けて入ってきたのは月方万里。
なぜかみずほは、小脇にとーらを抱えていた。みんな制服である。
学校に用でもあったのだろうか。

「大変なんだから!! ちょっと高浩!! その『面倒くさい奴が
現れたなぁ』っていう感じの雰囲気はなんなの!?」
「いや……面倒くさい奴が現れたなぁって思って」
「ちゃーーーーーー!!」

何事かよくわからない叫び声を上げながら、みずほはとーらの
首の辺りを掴んでぶんぶん振り回す。死ぬぞ。

「大変だって言ってるんだから、ちょっと慌てなさいよ!!」
「後ろの無言で、肩で息している万里も同じような表情だ」
「ホントに!?」

振り返るみずほ。全力で首を横に振る万里。

「違うって言ってるじゃない。デタラメ言わないでよ。そんなことより、
そんなグラスなんか磨いてる場合じゃないでしょ」
「いや、これ、結構楽しいぞ」
「大変なことになったのよ。こういう時は、早く、真っ先にわたしの
心のお姉さまであるふたえさんに話さないと。ふたえさんはどこに
いるの!」
「ふたえさんは、昼前から出かけてるけど」
「えええええええっ!? なんで!!」
「常葉商店街の緊急会議とかなんとか。緊急って割には、集まる
人分のお昼うちでのんびり用意してて、ピクニックかと思ったけど」
「なんてことなの……」

ハッキリと青ざめて、みずほは自らの口を手で塞ぐ。
まるで、そこから絶望がこぼれてしまうのを食い止めるように。

「一体何があった?」
「……あんたに言ったって……わからないわ」
「はぁ? なんだそりゃ」
「きっとわからないわよ。あんたには……人が生きる、そのことには
重要な意味と、掴み取らなきゃならない現実があるって事を……」
「……みずほ……」
「行こう。万里。もういいのよ。これが運命だったなら、受け入れる
しかないんだから。そんなこと――わかってたのにね」
「ふたえちゃん……」

みずほはとーらを投げ捨て(投げられても飛ぶので問題ない)、
回れ右をした。高浩に背を向ける格好で。

「私……大切な物を無くしてしまったの……もう……だめだわ……」

その刹那に見えた表情の悲しさと、そして、こらえきれずに浮かべた
小さな涙に気づいて、ハッとした。
気が強いみずほが人前で泣くというのは、普通じゃない。

「待てよ!」

高浩は呼び止める。グラスを慌てて戻し、急いで入り口付近にいる
みずほの元へ駆け寄る。

「俺にわからないことかどうか、話してもいないのになんでわかるん
だよ。言ってみろよ。義理なんか無いけど、知らない仲でもないだろ」
「無理よ……言ったって、わかるはずがない。この悲しみは、ふたえ
さんにしか理解されることはないんだから」
「どうしてそんな閉鎖的な考えになるんだよ! 話しにくい事なら
俺だって聞きやしない。だけど、わからないだろうって決めつけられ
るのはシャクに触る。そんなに俺は無意味かよ」
「……」
「……万里は? どう思うの? ……高浩に……」
「え? わ、私は……えっと」

今日初めて声を聞かせてくれた万里は、困ったように、救いを求め
るように高浩を見つめる。そして、仏頂面のみずほをも。

やがて意を決したように、声を放った。

「みずほちゃん。高浩くんに相談してみようよ。私たちにはどうする事も
できない事なんだから」
「……万里がそう言うなら……」

みずほは歩いて高浩のいるカウンター裏……厨房の所まで行くと、
そこで立ち止まった。目の前で、高浩の目を見上げる。

「みずほ。大切な物を無くしたって、一体何だよ。そんなに悲しむほど
大切な物だったのか」
「……ええ。私にとって……いや、女の子なら誰だって、それを
失ったりしたくないって、心の底から願うはずだわ……」

微かに、拭き残した涙の跡を見せて。息を飲み、哀願するように
綺麗な瞳を向ける。

高浩は背を伸ばした。意識して、耳を向ける気持ちで。
よく見れば小さい彼女を、女の子だと意識して。
微かに緊張する。手のひらに汗も感じた。

「高浩……助けて……この町最大のピンチなの……!」


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


  ガラガラ……

高浩は、仕方ない思いのままでいた。ここまで来る間に、そう。
その事を思い出して、激しく後悔の念を感じてはいたが、
この際どうしようもない。乗りかかった船である。

そう思わなきゃやってられなかった。

「すみませーん」

高浩は、電源の入っていない重い自動ドアを引っ張って強引に
開けた。閑散とした店内を見渡し、もう一度声を響かせる。

「すみませーん。誰かいませんかー」

誰もいなければしょうがない。
高浩は、あっさり引き返そうと思った。第一、高浩にしてみればそれは
他人事である。この世に他人事じゃないことがどれだけあるか
わからないが、少なくともこれは完璧に他人事である。

みずほが泣いていても、それは他人事である。
ただ……。

「すみませーん。誰かいますかー」

やがて。

10秒ほど経過してから、ゆっくりと。
のそっというやる気のない動きで、奥から人影が出てきた。

「どちらー? 今日はおみせ、やってないよぅ」

高浩は少なからず面食らった。
出てきたのは、若い……少女……いや、ピンクのワンピースを着た
20歳ぐらいの、少女というより幼女のような格好の女だった。

寝起きのようにぼやっとした目を擦りながら半身を見せる。

「おきゃくさん。今日、っていうか、これからおみせは開けないよぅ」
「……いや、あの……お客じゃないんです」
「……回覧板?」
「ちがいます」
「新聞はいらないですよぅ」
「違うって」
「自衛隊にも入りませんよぅ」
「なんでですか。勧誘に来たんじゃないです。ちょっと、お話が
あって」
「お話ぃ? なんのごようなのぅ?」

彼女は店の奥の、多分調理場のような所に繋がっている扉から
こちらを覗いていたが、そこでようやく出てきた。店内……。

三葉堂。常葉町唯一のケーキショップ。その、商品も並んで
いない寂しい店内へと。

~~~~~~~~30分前

「あの三葉堂が、三葉堂が、閉店するって言うの!!」

みずほは頭を両手で抱え、信じられないという風に首を振った。

「私たち女の子の、大事な大事な物が失われるのよ!! 」
「……」
「三葉堂が無くなっちゃったりしたら……私……自害するかも」

高浩も、同じように頭を抱えていた。そして、恨めしい目つきで
万里を見る。小柄な彼女は伸び上がりながら、ぶんぶんと首を
横に振った。一緒にしないで欲しいらしい。

良かった。

ケーキ屋閉店で自害するとか言い出すバカが一人だけで済んで
本当に良かった……。そしてみずほへ、高浩は思ったままのことを
口にした。

「死ねばいいのに」
「な、な、なんてことを言うのさ!! 誰が死ぬってのよ!!」
「今自分で言っただろ!!」
「偶然よ!!」
「自発的に偶然を起こすな!! ケーキ屋ぐらいで大袈裟な。
ったく、深刻に聞いて損した……」
「『ぐらい』!? 『ぐらい』って何よ!! 三葉堂は全女性の聖地
なのよ!! 高校球児にとっての甲子園、ゲームファンにとっての
セガ、飛行機ファンにとっての下地島や、オタクにとってのアニメイトに
匹敵するのよ!! あやまれっ!」
「知るか!! そんなに大切なら、嘆願でもなんでもやれば
いいだろ!! 大体、店閉めるってのも売上が出ないからじゃ
ないのかよ!」
「……う、うわあああああん!」

みずほはいきなり泣き出した。子供のように大声を上げて、

「高浩なんてキライだああぁ!!」

手近にあったグラスを左手で掴み……グラスを……
左手を高く振り上げて、みずほはそれを降り下ろし……

「ちょっと待て!! やめろーーーーーーーー!!」


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「というわけなんです」
「そうなのぅ。それはそれは、みずほちゃんには悪い事しちゃった
のねぇ。はい。紅茶なのぅ」
「あ、どうも」
「でもグラス代は弁償しないのよぅ」
「そですか……」

ケーキ屋の奥は、普通の民家だった。洋風の店だが、家の中は
むしろ和風である。畳に、低いテーブル。ごく質素な飾り気のない
部屋だが、特に貧乏という感じはしない。清潔で、それなりに
整っている。部屋の隅にある木製キャビネットに入ったテレビなどは
一昔のデザインという感じで古くさいが、30型はあろうかという
大きさだ。相当高かっただろう。貧乏には見えない。

そんな部屋に上げてもらい、高浩は座布団の上に正座していた。
白磁の器から、紅茶の良い香りが立ち上る。Railwayとは違う、
オレンジティーの香りで新鮮に感じる。

「いただきます」
「どーぞー」
「……」

紅茶を一口。味は特に変でもない。普通に美味い。高浩は、
彼女に率直に尋ねてみた。

「あの、店、閉めちゃうんですか」
「そうなのぅ」
「理由とか、聞いてもいいですか」
「うん。べつにいいよぅ」

三葉堂の店主であると言った彼女も、テーブル越しに紅茶を
一口。カップをソーサーに戻して、ため息をついた。

「ミミねぇ……あ、自己紹介。ミミはねぇ、三津村深波(みつむら
みなみ)っていうの。ミミって呼んでいいよぅ」
「……有沢高浩です」
「Railwayの有沢君でしょ。ふたえさんから聞いてるよぅ。みずほ
ちゃんも万里ちゃんも、お店の常連でミミのおともだちよぅ」
「三津村さんは若いですね。いつからこのお店を?」
「2年前だよぅ。高校出てすぐお菓子の勉強してねぇ、ママが
おからだ悪くしちゃったからねぇ、ミミが継いだのぅ。すごくない?」
「……すごい、と思います」
「だよねー。ミミもすごいと思うなぁ。ほめほめだよぅ」
「……ほめほめ?」

ニコッと笑って、深波は心底嬉しそうに。

「ほめてほめてほめたおすのぅ。ママのお店の評判もわるくなって
ないし、ママもすっごく喜んだのぅ。ほめほめだったのよぅ」
「お店、それでも閉めちゃうんですか。人気あるのに」

はぅ、と、今度は深波はため息をついた。コロコロ表情が変わる。

「そうなのよぅ。閉めちゃうのぅ」
「で、理由なんですけど。それを聞いてこないと、色々納得
されない人もいるみたいで」
「それがないようであるのよぅ。ミミがいけなかったのよぅ」
「……え?」
「はぅ。話せば長くなるのよぅ」
「……じゃ、別にいいですけど。お店に早く戻りたいし」
「聞いてほしいのよぅ」
「……はぁ」

深波はカップを持ったまま、頬杖をついた。アンニュイな表情で、
ロリータファッションの姿にはまるで似合わない雰囲気で。

「あれは、忘れもしない昨日の事なのよぅ」

普通忘れないだろう。

「ミミは、札幌に行ってたのぅ。大通公園でハトと遊んでから、楽しみ
にしていたJRタワーホテル日航札幌での、全道パティシエコンテストの
大会に出たのよぅ」
「なんだか凄そうな名前の大会ですね」
「すごいのよぅ」

その瞬間だけニコニコ笑顔になり、またため息をつく。切り替わりの
早さがちょっと怖い。

「ママはまえの大会で優勝してるからぁ、今回はミミが出ることになった
のぅ。ママはすっごい尊敬されてたのよぅ……」
「……さっきから、ちょっと気になってたんですけど……」
「のぅ?」
「お母さん、もしかして……体調を崩してって……」
「……」

深波は目を伏せた。それで、高浩も悟る。
それ以上聞いてはいけない。

「……すみません」

素直に謝った。

「ママは昨日から倶知安にゴルフに行ってて、留守なのよぅ」
「死んでないんですか!!」
「ママ死んじゃったのぅ!? 知らなかったよぅ!?」
「違いますよ! 今なんで目を伏せたりしたんですか!!」
「そういえば今年スイカ食べてないなぁって思ってぇ」
「ぜんぜん関係ないことだし!?」
「ママは多分死んじゃってないよぅ。体調崩したっていうのも、ただの
風邪だったみたいで。ミミが早とちりしちゃっただけなのよぅ」
「早とちりでお店を継いじゃったんですか……」
「ママは自由な時間が出来て嬉しそうだったから、それはそれで
良いと思うのよぅ。で、パティシエコンテストの話に戻るとね、
そこでミミは、ちょーひどいことを言われたのよぅ」
「ひどいこと?」
「お店を辞めるのも、そのせいなのよぅ」

深波はとりわけ深くため息をついて、思い出しながら
その事を話してくれた。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


札幌駅北口。JRタワーホテル内にある大きな会場。
全道の有名店やホテルから30人のパティシエが料理の腕を競う
ために集められた。その会場で。

前大会優勝者の娘である深波は、その容姿も腕も含めて、注目
の的だった。

「がんばるのよぅ」

緊迫感に欠ける声だが、手つきは真剣である。
常葉町唯一のケーキショップとしての意地もある。母親は田舎者と
見下されながらも優勝を勝ち取ったのだ。

「負けられないのよぅ」

材料も完璧。工夫も含め、母親のアイディアも取り入れた。
2時間後、完璧な出来のケーキが焼き上がる。
三葉堂自慢のベイクドチーズケーキ。

「出来たのよぅ」

完成したケーキを、深波は愛おしく見つめた。全てにおいてミスは
ない。一見してそのケーキは自然に映るが、破綻の一つもない。

丁寧にそのケーキにナイフを入れて、6つのピースに切りわけた。
そして審査席へと持って行く。

「ふふん。食べて驚くのよぅ。すごい美味しいのよぅ」
「……」

著名なパティシエらしいその初老の男は、出されたケーキを見て
すぐに表情を変えた。

無理もない。その出来の完璧さは立ち上る香りでも解る。

審査員は5人ほど、席で話し合いをしていた。何事か、深刻な
表情で会話している。深波のことは放っておいて。

なかなか審査が始まらないので、深波は高い声をさらに高くして
叫んだ。

「なんなのよぅ。早く食べて、まんてんつけるのよぅ」
「あー……君、これは何かな」
「ベイクドチーズケーキなのよぅ。見たらわかるのよぅ」
「失格」

がーん!?

「し、失格ってなんなのよぅ!! 何が悪かったのよぅ!!」
「強いて言えば……全部」
「ががーん!?」


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「しついにうちのめされて、今朝、自転車で札幌から帰ってきたのよぅ」
「自転車で!?」

常葉町と札幌は、海岸線を通ると200キロメートルほど離れている。
北海道は本当に広い。

「7時間ぐらいかかったのよぅ。だからさっきまで寝てたのよぅ」
「しかも妙に速えー……」

とにかく、話をまとめると。
自信満々で作ったチーズケーキが見ただけで失格となり、あまりの
ショックでお店を畳んでしまうという話か。

「そうなのよぅ」

深波はため息ではなく、鼻から息を吐いた。

「ミミは未熟なのよぅ。ぴよぴよさんなのよぅ。もっと勉強しないと
すっごいケーキは作れないのよぅ。きっとあの審査員のばかも、
生まれ変わったミミのケーキを見たら食べずにはいられないのよぅ」
「こっそり悪口を滑り込ませるなよ」
「そんなわけで、ミミはフランスにいくのよぅ」
「フランス!?」

うんうん、と深波は難しい顔で頷いた。

「フランスで修行すれば、もっと美味しいケーキが作れるって、
昔見た少女マンガに書いてあったのよぅ。人生賭けるのよぅ」
「少女マンガの情報に人生賭けちゃうんですか」
「もうそれしかないのよぅ。そんなわけで三葉堂も閉店なのよぅ」
「今度日本に帰ってくるのは? 何年後になるんですか」
「確かあの少女マンガには4年ぐらいって書いてあったから、たぶん
そんなもんだと思うのよぅ」
「……」

気楽そうに言う。表情からは決意が……読みとれるような、
そうでもないような不思議な感じだが、言ったことを曲げるような
素直な性格ではないというのは高浩も感じた。

そして思ったのだ。彼女はその後、どうするのかと。

「日本に帰ってきたら、コンテストにリベンジして……その後は、
どうするんです?」
「もちろん、常葉町に戻ってくるわよぅ」
「……戻ってくるんですか。名声を得ても?」
「戻ってくるわよぅ。だって、ミミの故郷だものぅ」

故郷……。

故郷……か。

高浩は、その言葉を何度も、心の中で繰り返した。故郷。その
言葉は甘く、切ないような複雑な余韻を持っている。

故郷。高浩の故郷は……東京の生家で。
そこは賃貸住宅の一角で。

望郷の想いとはかけ離れていた。開発され、誰かに売られ、
次々に新しくなり、次々に消滅してゆく故郷。
それがどうしようもなく悲しい。

両親も失われ、帰る場所も失われた自分の故郷。

それが常葉町のように、変わらない場所であったならどんなに
素晴らしかっただろうか……と。

「応援しますよ」

深波に言うと、彼女は大声を上げて喜んだ。

「ほんとうぅ!? ありがとうぅ! 」
「ええ。頑張ってください」
「よーし、じゃあ、早速だけどちょっと高浩くんにお願いし
ちゃおうかなぁ。一つ頼まれてくれるぅ?」
「何です?」
「ちょっと待っててぇ」

どたどたと深波は走って、お店のほうへと隠れてしまう。
何かドアを開く音が聞こえ、すぐに彼女は戻ってきた。

少し食べた跡のある、三角形のチーズケーキだった。

「実は何が悪かったのかと思ってぇ、昨日出したチーズケーキ
を1ピースだけ持って帰ってきてたのぅ。ぜひ一口食べてぇ、
ミミのケーキに何が足りないのか教えて欲しいのよぅ」
「食べた跡があるけど」
「それはミミが自分で食べてみたのよぅ。自慢じゃないけど、
さいっっっっっっっこうに美味しかったよぅ……しくしく」

美味しいなら泣かなくても良いと思うが、それが食べて貰えな
かったということは、料理人としては泣きたいほど悲しいのだ
ろうか。

「俺食べても、あんまりよくわからないと思いますけど」
「率直な意見が聞きたいのよぅ。素人でもかまやしないのよぅ」

確かに素人だが。
まあ、それはどうでもよかった。

「じゃ、一口」
「どーぞぉ。ね、どうぅ?」
「まだ食べてません」
「食べて食べてぇ」
「いただきます」

白い皿の上に置かれた、深いオレンジと黄色のケーキは見るから
にきめ細やかで、美味しそうだった。

銀のフォークをすっと刺して、しっとりとした感じのそれを
口に運んでみる。

「どうぅ? どうぅ?」
「……」

どうもなにも。

「……これ……めちゃくちゃ……」
「うん」
「美味いっすね……」
「でしょおぉー?」
「美味い……」

ミルク感の残る自然な甘さとコク。バランスの取れた酸味との
調和。新鮮なレモンの鮮やかな香りそれに加えて、香ばしい
不思議な風味が全体にアクセントを加えている。秀逸だ。こんなに
美味いチーズケーキは食べたことがない。

しかもこの食感と、凝縮感はどういうことだろう。
味の濃さが半端じゃない。もったりとしているわけではなく、
爆発的に味覚に訴えかけてくる味だ。

みずほや万里や、この町の誰もが三葉堂のチーズケーキを愛するはず
だった。こんなに美味しいのなら、甘い物がそれほど好きでもない
高浩でも相当食べられてしまう。今も、もう一口食べたくて
しょうがない。

「これ、何の香りですか? なんか樹液みたいな甘い……」
「おおぉ、よく気づいたねぇ。それはメープルだよぅ。本物のメー
プルシロップを土台のスポンジに使ってるんだよぅ。メープルシ
ロップの本物は高くてねぇ、でもすごく美味しいんだよぅ」
「こんな美味しいのに、なんで落選だったんですかね」
「うーん……もしかして」
「心当たりが?」

腕組みをして考える。しばらくして深波は、思いついたように
手を叩いて、とんでもないことを言いだした。

「遅刻したからかなぁ?」
「……はい?」
「遅刻しちゃったからかもぅ」
「……遅刻……したんですか」
「うん。ハトにエサあげるのぉ、楽しかったんだもん」
「……」
「それかなぁ」

……遅刻するのはかなり論外だと思うが、高浩はちょっと思案し
た。思いついたことを言ってみる。

「遅刻して失格だったら、最初から作らせないと思うんですよ」
「あ、そうかぁ。そういえばそうかもぉ」
「遅刻以外に気がついたところ、ないですか」
「うーん……ケーキ作るのに夢中だったしなぁ。そうだ、ママに
聞いてみるよぅ」
「お母さんに?」
「ママ、ずっとじゃないけど会場にちょっと来てたみたいなのぅ。
ミミは会ってないけどぉ、けーたいに電話してみるぅ」

立ち上がって、今度は元気なくとことこと、部屋の隅にある普通の
電話へと向かう。コードレスでもない、普通の白いプッシュ電話。

そこで受話器を取り、深波は振り向いた。

「ママの携帯、何番だっけぇ?」
「俺に聞かれても」
「あ、短縮登録してたっけ。たんしゅくー1番ー」

声に出さないと行動できないらしい。そういう人、確かによく見る。

電話は幸いにも、圏外とかという事はなく。無事に彼女の母親に
繋がったらしい。

「ママ? ミミだよぅ」

明るい声で話す深波。静かな室内で、電話の向こうの声もちょっと
だけ聞こえてくるが、内容はよくわからない。

「ママ。あのねぇ、ミミ、フランスに行くのよぅ」
「ぶっ!?」

いきなりそんな話か。
というか、そんな話をしていなかったのか。

「それで、お店も閉めるんだよぅ」

いやいやいや。
元々お母さんの店だろうここは。
いきなり事後承諾はないだろう。

高浩がわきわきと手を振ったり、×印を作ったりとアピールするが
深波はまるで気づいていない。

「ママの都合なんか知らないよぅ。ミミはフランスでケーキの勉強
するのよぅ」

都合!? それは都合なのか!? 母親の店だろ!?

「ミミは、あのコンテストに出したチーズケーキを食べもせずに
ダメだしした審査員さんをぉ、きっと見返すのよぅ……んぅ、
そうだよぅ。ミミはすっごく悔しいんだよぅ……泣いちゃうよぅ」

本当に泣いている。
一瞬で泣いたり笑ったりできるところは、特技だろうが本当に怖い。

電話先の声は、なんだかよくわからないが困惑しているようだった。
それはそうだろう。
いきなり娘が、自分の店を畳むとかフランスに行くとかよくわから
ない事を言いだしているのだから。

せめて、それが少女マンガに影響されたということだけは言わずに
おいてほしいものだ。身体が弱い……? だかなんだかわからない
が、母親にとってこれ以上無意味なショックを与えない方が良い。

「……えぇ? なんのことなんだよぅ?」

深波は首をかしげる。

相手の声のトーンは相変わらず困惑しているようだが。

「(……あれ? なんか、違うかな?)」

高浩も内心、首を捻った。どうも、説得しているとかそういう
話の内容ではない気がする。なんとなく……


……それは……


もしかして……呆れてる?



「……ちょ……えええええええええええええええええええええええ
ええええええええええええええええええええええええええええええ
ええええええええごほっごほっえええええええええええええ!!?」

何事か。
深波の上げた大声に、部屋の中はしん、と凍り付いた。

大声につられたかのように、相手の声が。

受話器越しに聞こえた。大きな、深波を叱る声が。




『あんたが遅刻して来るからでしょうが! 今年のテーマは
 ガトーショコラ・ベースのケーキだって聞いてなかったの!?
 チョコとチーズじゃ全然違うでしょうが!!』



「……ガトーショコラ……じゃあ……ミミは……てっきり……」

呆然と呟く深波。左手で、頭痛がするこめかみのあたりを押さえて
うめく高浩。

「最悪だ……普通に最悪だこの人……」

いやもう、その後のことはどうでもよかった。ひたすら小言が続く
中、深波が泣きながら謝っているだけである。

大した内容はない。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「本当にみんなにご迷惑かけちゃったよぅ」
「……」

店の前で、見送りに出てきてくれた深波がぺこっと頭を下げた。

「何かお礼をするよぅ。明日は大ごめんなさいセールをするよぅ」

大はいらん気がする。

「ケーキ一個10円で売るよぅ」
「それは安すぎだろいくらなんでも!?」
「じゃあ100円にするよぅ」
「まぁ、そのぐらいなら」

何かというと両極端に走るのが非常に怖い。常に止まらない
水飲み鳥のようなものかもしれない。ある意味では思いきりの良い
天才肌の性格とも言えるが、どちらにしろ怖い。

ただ、可愛らしい少女のような容姿と微笑みで、怨まれないことは
確かだろう。

「高浩くんにも何かお礼をするよぅ」
「いいよ。別に何もしてないし」
「そうはいかないよぅ。あ、ちょっと待ってて」

どたどたと騒がしく、電源の切れた自動ドアから店の中へと戻って
ゆく。

すぐに、彼女は戻ってきた。手に何か、封筒のような物を持って。

「はい。これあげるよぅ」
「なに? これ?」
「フランス行きの航空券だよぅ」
「いつ買ったんだよ!!! いつ!!!」
「今朝だよぅ。まさか行かないとは思わなかったよぅ」
「まさか買ってるとは思わなかったよぅ……」

深波の口調を真似して、高浩はがっくりと肩を落とした。

「せっかくだから行ってくればいいんじゃないか。観光に。勿体
ないだろう。安いもんでもないし。払い戻しもできるし」
「別にいいよぅ。記念にあげるよぅ。実は海外とかあんまり行き
たいと思わないよぅ。外国語しらないよぅ」
「どうやって生活するつもりだったんだ……」
「ケーキの名前なら知ってるよぅ」
「毎日ケーキ食うつもりか」

高浩も別にいらないものだったが、くれるというなら仕方がない。
一応、もらうことにした。

「また来るのよぅ~」

満面の笑みでぶんぶん手を振る深波。高浩は、ごく小さく手を
振り返して、Railwayへと戻った。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「うっそおおっ!? 閉店、なしになったの!?」
「やったあっ!!」

高浩からの報告を聞いて、文字通り飛び上がって、抱き合ってと
大喜びするみずほと万里。

ついでに、高浩は極秘情報もリークすることにした。

「あと、明日はお詫びとして、ケーキ全品百円らしいぞ」
「おおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」

女子両名は完全に狂っている。ケーキの魔性に取り憑かれ。

「良かったねぇ万里生きてて良かったねぇ」
「うん……100円なら一個だけ買っても良いかな……」

万里に多少哀れさを感じるが、それはともかく。
高浩は、ポケットに突っ込んで、はみ出している航空券のことが
気になって仕方がない。

成田発パリ空港行き。

「安いもんじゃないよなぁ。これ」
「なにそれ? 航空券じゃない」

ひょい、と、みずほが顔を近づけてくる。

「うわ、なんだよ」
「なによ。ちょっと見せて……。ふぅん。パリ行き。CDGね」

封筒からチケットを取り出して、まじまじと見ている。

「欲しいのか? 欲しけりゃやるぞ」

高浩が問うと、みずほは首を横に振った。

「いらなーい」
「なんで」

確か、みずほは飛行機も好きだし、今は夏休み中だ。海外旅行と
いえば、行きたいのが普通だろう。

「行けばいいのに。飛行機見られるだろ。好きなんじゃないのか」
「成田発直行便なんて風情に欠けるわ。オーストリア航空の
ウィーン経由便とか欧州乗換よやっぱ。777じゃなくエアバスで。
380だったら考えたんだけどなぁ」

溜息をついて、彼女の手からチケットを奪い取った。

「じゃ、やらん。貰える物に贅沢言う奴は嫌いだ」
「そもそも、よその人から貰ったものを私にプレゼントするなんて
サイテーじゃないの」
「なんだよ。俺だって強請ったわけじゃない」

万里が欲しそうにしているので、万里にチケットを手渡す。
物珍しそうに……本当に欲しそうにしている。万里にとっては
憧れだろう。

「万里。行きたいの?」
「う……うん。でも、お金かかるんだよね……帰り」
「帰りの心配する必要ないかもしんないよ」
「え? なんで? ほんと? タダとかなの?」

笑顔でそのチケットを見せびらかすように広げる万里。

みずほは、ピッとその、万里の手にあるチケットを指さした。
しっとりと、冷たい声で。

「三津村深波……その名前のチケットじゃあ、無事にパリに
着くかどうか……」


万里は笑顔を凍り付かせて、無言でそのチケットを高浩の手に
押し戻した。


それはまぁ、言われてみればそうかもしれない。

苦笑して、高浩はそのチケットをRailwayの壁に掛かっている絵の
額縁の中に挟んで置いた。


記念品とは、そういうものだから。



(29)終

(30)へ続く
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