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Way to the Blue 35話

(35)


しっとりと重い、湿った空気が漂う。粘性のある見えない何かが
満ちているようにすら感じる。

夏の雨。それは突然に。

まるで記憶の扉をノックするかのように激しく、地面を叩き続ける。
閉じられたドアを持つ者にとっては、それはすなわち、邂逅の合図と
なりうる。

雨を仰げば。虚ろな精霊が生きている。
消えてゆくだけの孤独で、希薄な精霊が。

その姿を記憶しているか?

それを受け止めて笑ったことはあるか?

泣いたことはあるか……?

雨が叩き続ける記憶の扉。
力強く繰り返される誰何の声を、黙して聞き続けるのか。

あるいは。

「なぜ生んだの?」

牧野楓は黙して、ただ聞き続ける。

「なぜ。どうして」

彼女は答えた。中学一年生という、どうしようもないほど若い脳で
必死に考えて答えた。

「だって、カレシの子だから」

幼かったかもしれない。その答え自体が、理由として正当でも幼さが
際立ったかもしれない。全てがそうだ。幼いから、許されない。

『大人もたくさん間違えるのに、怒られるのは子供ばかり』

その時の自分は……いや、誰もが。
幼さに気づかない。そして、その事に納得も出来ない。

大人はいつだって間違えるじゃないか。子供を叱りながら、自分から
ルールを壊すじゃないか。

「そんな理由なの? そんなに大切な相手? その彼は、13歳で
子供を産ませた楓のお見舞いにも来ないのに? 楓は死にかけて
いたのよ。お医者さんが、危ない状況だったって言ってたのに」
「お母さん」
「自分の意志で産んだのだと、お母さんは勘違いしてたわ」
「お母さん!!」

楓は顔をしかめた。まだ下腹部に残る鈍痛が、絶叫と共にこみ上げ
てくる。どうしようもない痛みに、わかっているはずなのに涙腺が疼く。

それもこれも、若いからいけないんだ。

「来るわよ!! カレシは!! 来るに決まってんでしょ!!」
「来ればいいわね」

冷たく言う母親に激昂して、楓はつかみかかろうとした。しかし、楓の
いるベッドから離れて母親は、もう治療病室から出ていこうとしていた。

「どういうことよ……!」
「もうその人のことは忘れなさい。来やしないんだから」
「このクソババア!! どこまで馬鹿にすれば気が済むのよ!!
あたしがガキだからってなんでも説教!? うっざいんだよ!」

睨みつけながらではない。
ベッドの上に置いた両手に向かって、吐きつけるように。

ハイケアと呼ばれる病室には、楓一人しかいない。呼吸機器、
心電図、麻酔機器などが置かれている殺風景な病室。

白いベッド。血の気の失せた白い手。酷い出血があったらしい。
まだ貧血な気がする。出産してから24時間は経ったというのに。

それでも、頭には血が来ている。過剰なほどにだが。

「言おうか言うまいか迷っていたけど、あなたがそんな風だから、
お母さん言うことにしたわ」
「何をだよ!」
「昨日、家に手紙が来てね。その彼から。手紙というか、ただの
ノートをちぎった紙のようだけど」

意外な話に、楓は気の抜けた返事をした。

「……え?」
「慎一君って人。勘違いされているかもしれないけど、あなたと
付き合ったことはありません。全く身に覚えがありませんし言ってる
ことがわかりません。もう電話しないでくれと伝えて欲しい、って」

しん、と、凍り付いたように息が止まる。
呼吸を忘れる。吸った息が、出てこない。

「……」
「手紙はここにあるわよ。他にも、学校のお友達からも。置いて
おくわね。お返事書くのよ……お母さんはまた明日来るから。
パートが終わるの5時ぐらいになっちゃうけどいいわよね」

はぁ。
長い、長いため息をついたときには、母親は病室から消えていた。

ようやく息を吐くことが出来たら、今度は緩んだ全身が震えだして
寒気を感じた。カタカタと奥歯が音を立てて、悪寒が体中を蝕んで
ゆく。

それなのに。

「……は……ハ……ハハ……」

笑いがこみ上げてくる。ガタガタ震えながら。自分の身体を自分で
抱きしめながら。

「ハハハ」

牧野楓はそのまま、ずっと笑っていた。
面白くてしょうがないのに、涙だけが溢れ出たから、楓は笑いながら
泣き続けた。


そういえばあの日も、強く雨が降っていた。

雨が叩き続ける記憶の扉……。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

雨を仰げば。虚ろな精霊が生きている。
消えてゆくだけの孤独で、希薄な精霊が。

力強く繰り返される誰何の声を、黙して聞き続けるのか。

「あるいは、声を枯らして否定するのか」

傘を閉じ、一言呟いてから。彼はその店のドアを開ける。
瞬間、瞳を伏せていたくなる。それは願望ではない。感情は
恐れを抱いていた。他人事のようだが、まさに。

「……」

無言で店内に入ると、薄暗い中に人影を見つける。
雨で殆ど意味をなさない窓からの、ほんのかすかな光に照ら
されて。まるで死んでいるような女。店のカウンターに俯せに伏せて、
小さく肩を揺らすだけの。

「楓」

言葉を掛ければ起きあがると、そう思っていた。
楓は伏せたまま肩を揺らして、いや、肩を震わせていた。

彼は適当な席を……楓の隣になる、カウンターの席に腰を下ろした。

ギシッ……

古ぼけたバーの、汚れた赤いイスが軟弱な悲鳴を上げる。
それでようやく気づいたのか。
がばっ、と、楓が体を起こした。

「……なぁんだ……。アンタか」
「なんだとはヒドいな。半年振りだってのに」
「何しに来たの。安倉木智也」
「ボトルの酒を飲みに来た」
「中に入って勝手に取って。グラスの場所はわかるでしょ。右の棚の
二段目で埃被ってるブッシュミルズ・マディラがアンタのよ。
アイリッシュウィスキーなんて、アンタぐらいしか飲まないから前の
ままになってる」
「OK」

楓はそれだけ言って、またテーブルに伏せた。
今度は目を閉じず、横目に空のグラスを見つめながら。

智也は何も言わず、一つのグラスとアイリッシュウィスキーのボトル
を持って、店内へと戻ってきた。

そして。

楓のグラスに、何も言わずにウィスキーを注いだ。

「……飲みたがっているんじゃないのよ。あたしは」
「いや、飲みたがっているように見えるよ」

智也は笑いながら言う。楓は面倒くさそうに、グラスに指を絡めた。
深い琥珀色の液体が微かに揺れる。

「夢を見たの」

智也は店内の壁より……楓の背中の方に座っている。楓の背中を
見つめる形で。グラスを傾けて、ウィスキーを口に含み。

染み着くような重いコクを存分に味わいながら、飲み干す。
焼けるような熱さが身体の中に広がっていくようだ。

「遊花を生んだときの夢」
「ふぅん?」

別に意外でもないというように、智也は気のない返事を返す。

「夢を見るのはいいことだろう」
「見心地の良い夢じゃないわよ。疼くのよ。思い出すだけで、痛くも
ない腹がジンジン痛むの」
「気のせいだよ」

あからさまに落胆する。わかってない。安倉木智也は。

「そうよ。気のせいよ。でも、あったことは気のせいじゃないわ。雨音が
扉をノックするのよ。閉じたつもりの過去の記憶を」
「えらくロマンチストじゃないか?」
「ふざけないでよ。こちとら『えらくリアリスト』なの。幻想を追っかけてる
どこかのアホと違って、女はみんな現実主義者なのよ」
「手厳しいな」

楓はどこか、まだ夢を見ているような気分で。

「この雨のせいよ。そして、あんたのせいよ」

恨みがましい言い方で、牧野楓は口を尖らせた。
琥珀色の液体は注がれたままの姿で、目の前にある。まるで酔って
いるようだ。

どうもその色のせいで、酔ってしまっているようだ。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


あの日は晴れていた。だから、夢を見ない。

楓は一般病棟に移されていた。幼い赤子は、未熟児としてケースの
中で育てられている。

楓はその赤子を抱き上げることはできない。
そして、そうしようとも思わない。

泣くこともしない赤子を、見たいとも思わない。

どうでもよかった。
空は晴れている。

雲一つない青い空の向こうに、視線を向けていた。その行為に
それほどの意味はない。真っ青な空には、好きなことを浮かべられた。
不思議なことに、思い出すのはそれほど仲がよいわけでもなかった
級友のことだった。

級友一人一人の顔を思い浮かべては、今、何をしているのだろうと
いう問い掛けをする。

名前も思い出せない人のことも思い出す。

そして、ゆっくりと時が進んでゆく。流れていくのではなく、
『進んで行く』

カタカタと音を刻むようにして進んでゆく。
壊れた玩具のように。

ただ、思考の中に闇があることには気づいていた。その部分だけが
欠け落ちたタイル絵のように、空虚な時が、想い出がある。

そこが失った場所だった。

心の中の一部の暗闇。割れた場所。花畑の中にある焼け跡のような、
絶望的な醜さである。心の中にその醜い鉤裂きがあることが、どうにも
物悲しく、哀れに思えてくる。だからできるだけ、そこを見たくなかった。
そこが自分の、最も大切な場所だったことを認めないようにしようと
思った。

焼け落ちた景色の一部に何があったか、そんなことはもうどうでも
いいことなのだ。ただ、醜いその風景自体見たくない。

だから空を見ていた。

時々、プリンやりんご、電車や、人魚、縦笛など、おかしなものも
見えてくる。思いつくままに青空で絵を描いているのだ。

それは思いのほか楽しく、楓は少し笑ってしまった。なぜ自分はこんな
楽しい遊びを今まで知らなかったのかと思った。楽しい。楽しい。

楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。

楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。

楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。

ずっとこうしていたい。


それなのに。


景色を壊すものがあった。

突然青空は白い物に遮られ、どこかまぶしさが眼底に差し込んでくる。
思考を無理矢理中断されて、楓はそれを見た。

三角形の白い物体はふわふわと空を舞い、窓から病室の中へと入り
込んできた。窓枠をくぐってすぐ、パタッと床に落ちる。

一体……何?

「……」

ベッドから降りて、床にあるそれを拾う。
紙でできた飛行機だった。紙自体は画用紙らしい。2階の窓まで
飛んだのは奇跡に近いだろう。それにしても、誰が? どこから?

一つの疑問は、すぐに解けた。

紙飛行機には名前らしきものが記されていたからだ。
三ツ葉風夏。

「みつばふうか? 誰……?」

楓が呟いたところで、殆ど同時に。
いや、声の方が少しだけ遅れてきた。その時なぜか、楓は窓の外
ではなく、病室の入口……つまり、廊下を見ていたのだが。

今は一般病棟で、いつもであれば4人は患者がいる。たまたま
個室のようになっていた。たまたまというか、病院側がそうしてくれた
のかは定かではない。

だから別に、誰が気になったわけでもなかったのだが。

廊下を見ると、とんでもなく髪の長い少女がいた。
彼女は栗色の髪をした童顔の子で、いや、少女というか年齢としては
楓よりも上である。明らかに。

「あ、ここだ」

彼女は可愛らしい声でそう一言。意味がなさそうな言葉を言ってから
病室へと入ってきた。いたるところに茶色の猫の柄がちりばめられた
パジャマ姿である。入院患者の一人らしいが病気なのだろうか? 
ニコニコと満面の笑みを浮かべながら近寄ってくる。

「へろぅ」
「……」
「あいあむ じゃぱにーず へろぅ」
「……」

どこかの衛星探査機に積まれた板の人のように右手を挙げて、
挨拶らしきものをしてくる。

「(何よ……この女)」

楓はあからさまに迷惑そうな顔をする。それに気づく様子もなく、
その髪の長い少女はひたすら喋り続けるのだ。

「まいねーむ は ふーかさんです。毎度です。初めまして。あのね、
紙飛行機飛んだんで来たんだけど名乗ったので名乗り返してくれ
なきゃやだ」
「……」
「やなの」
「……」
「ふーかさんつまんない」
「……」

むっ、と、ふくれっつらになった彼女は、手を差し出した。その手は
紙飛行機を受け取ろうとする。

楓は彼女へ、それを差し出した。
画用紙で作られた紙飛行機。
真っ白い翼を。

真っ白い……翼……?

「……翼……?」

まるで視線を盗まれたように、楓は彼女を見ていた。その背中に、
真っ白い翼。大きな、純白の翼が見える……。

それは幻影なのか。

その少女は、翼を持っている。それが楓には見えた。
そんなものがあるはずはないのに。

目を擦ってみると、それは見えなくなった。ぼんやりとした光の結晶の
ような輪郭は、影も形もなかった。

「今……なんか、羽みたいなのが」
「あれ。見えるんだ? ふーん。じゃあ、良い子なんだね」
「……え?」
「三ツ葉ふーかさんだよ。はい。名乗ったら名乗り返す。礼儀作法。
ふーかさんは黙られると一番困る。ぽんぽんぽんぽんってすぴーでぃ
にさささっとやってくれないとだめだ。お名前言うの」
「ま、牧野楓」
「カエデちゃん。おぼえとく。でも忘れるかも。この紙飛行機すごい
飛んだんで取りに来たけど、やっぱり翼に名前書いといてもらう」

三ツ葉風夏。その少女はそう言って、パジャマの胸元に手を突っ込む
とそこからマジックペンを取り出した。

「ここ。ふーかさんの名前のよこのとこに、カエデちゃんの名前書いて」
「……」

どこに入れてたのか妙に生暖かいマジックで、言われるがままに
名前を書き記す。牧野楓、と。

「まきのかえで。かっこいい。古風な感じで」
「そ、そう? ところで、これ一体なんなの?」
「かみひこうき」
「そうじゃなくって、なんで……」

なぜ、あんたはそんなに元気そうなのに病院にいるの?
なぜ、そんなに楽しそうなの?
なぜ……

「なぜ、ここにいるの?」
「ふーかさんは心臓がだめだから走ったりしたらちょっと死にます。
でも大丈夫だよ」
「心臓が……」

そうは見えなくても、病気が巣くっているという。とても母親に見えない
母親がいるのだから、信じられないというわけでもない。

「楓ちゃんはなんでここにいるの? おなかいたいの? あ、ここ
産婦人科の入院棟だっけ。ふーかさんはここの病院のぬしなんで
なんでも知ってるんだよ。あのね、同じ棟にチャンドラさんっていう
外国人の人もいるの。いっつもお話して仲良しなんだよ。
れろちゃろれろべ~とか話すの。楓ちゃんはわかる?」
「いや、わかんないけど……」
「うん。ふーかさんも何語かわかんない。で、もしかして楓ちゃん、
病院内のウワサで聞くアレかな? すごい若いのに赤ちゃん生んで
お母さんっていう子?」

風夏の言葉に、楓は眉をひそめた。唾でも吐き捨てるような気持ちで
声を震わせる。

「……なにそれ。噂? うざ……そうやって人のこと、面白がって詮索
して何が楽しいの。まぁ、さぞかし笑えるんだろうけど。バカが自滅
したって話で」
「なんだかよくわかんないけど、すごいね。ちょーかっこいいね」
「は?」

意味が解らず、楓は眉間に皺を寄せた。

「なんだって?」
「すごいね楓ちゃん! そんな若いのにお母さんだよ! ふーかさん
もサスケがいるけど、猫じゃないの生んだことないよ!! すごい!
ふーかさんもけっこう大急ぎで人生頑張ってるけど、楓ちゃんは本当
に立派だよ! 今度しょーじょー作ってあげる」
「い、いらない」

その尊敬の言葉というのは大真面目のようだった。
茶化しているのかと思ったが、薄く青みがかった三ツ葉風夏の目は
真剣そのものである。

「遠慮しなくていいよ。名前は? 今どこにいるの? かわいい?」
「……」

それは……。

楓は口を開きかけて、やはり何も言えなかった。
その質問の答えは全て解らない。
一つも……答えられない。

「名前はまだ……会ったことないし、多分今保育器の中……」

それに。

……それに、死んでしまってもいいと思っていたから……。

「そんなー。だめだー。名前が無いと神様も見つけようがないもん。
どこにいるかわかんなくなっちゃうもん。困る。よし、じゃあ名前
つける」
「……は?」
「楓ちゃんにいい名前があったらつけていいよ。ふーかさんは二番目
でもいい。とくべつに」

どこが特別なんだ。
いや、そんなことより。

「……いや、そんな……いきなり、今は」
「ないの? じゃあふーかさんがつけるね」
「ちょ、ちょっと待ってよ。あたしの」

自分の子供だから……。
いや……。何を言ってるんだろう。そんなことが言える立場じゃない。

「あたしの……」

さっきまで、子供のことなんか自分の心のどこにもなかった。
名前なんて付ける気も全くなかった。

ただ、そんな事実はなくしてしまいたいとさえ思っていたのに。

「いや、いいんだ。なんでもない。そう。あんたがつけてくれるの」

それは……。
きっと、子供も喜ぶだろう。

「(あたしが付けるよりもずっとね)」

辛辣な皮肉に、楓は薄く笑った。どこまでも情けない。カレシには
逃げられ、親には愛想を尽かされ、視線が恐ろしくて学校にも
行きたくない。こんな母親を慕う子供がいるのか……。

「それじゃー、ふーかさんが考えるよ。うーん。はい決めた」
「早っ」
「すぴーでぃに。ちゃっちゃっちゃっちゃっと決めないと。えっとねぇ、
その子は……」

また胸元からマジックペンを取りだし、先ほどの紙飛行機の翼に
何やら書き始めた。

「まきのー……はい。いい名前だ。古風な感じ」

『牧野 遊花』

「なんて読むのこれ。あたし、学校あんま行ってないからバカでさ」
「ゆかちゃんだよ」
「ふぅん」
「ふーかさんは夏の風だから、遊花ちゃんはひまわりなの。で、
ふーかさんは遊ぶことが大好きだから遊花ちゃんも一杯遊ぶの。
だから遊ぶお花で遊花ちゃん。ゆーかちゃんでもいいんだけど、
ふーかさんとまぎらわしくてだめだ。遊花ちゃん。けってーい」
「……なんでひまわりなわけ?」
「夏の花はひまわりだから」
「朝顔とか」
「ひまわりなの。決めたの」

真面目に言い切る。この言葉の無駄な強さは、少し羨ましい。
楓は風夏に訊ねてみた。

「……あと、いい名前だと思うんだけどさ……一応ね」
「なんだー?」
「ちょっと気になったんだけど、どうしてあたしの子供が女の子だと
思ったわけ?」
「え? だって、遊花ちゃんが、笑顔いっぱいで楓ちゃんと一緒に
歩いてる姿が見えたもん」
「……なに、それ。見えるって」
「大人になったら、遊花ちゃんは美人になるよ」
「なんでそんなことがわかるのよ。見てもいないのに」
「わかるよ。だって見えるもん」

風夏は窓にゆっくりと近づく。

手に持っていた紙飛行機をすっと、振りかぶって。
離す。

「翼に力を!」

一言、大きな声で叫んで。空中に放たれた、三つの名前を書き記
した紙飛行機は、一度ふわっと風に舞い上がった後ゆっくりと滑空し
右に左に揺れながら飛んでゆく。

「ほら。こんだけ飛ぶもん。だからきっと、間違いないよ」
「何がよ」
「みんなが幸せになれるおまじない。楓ちゃんも一緒に叫ぶの」
「な、何」
「だって翼に名前書いたもん。一緒に紙飛行機折って、いっぱい
飛ばして、そのうちみんな幸せなの」
「だからなんなの。あたし何にも言ってないし!」
「ふーかさんの命令には従う」

急にじっとりした声になり、風夏は恨みがましい目で楓を見つめた。
ぼんやりしているのに、その瞳は果てしなく深くも見える。

青みがかった瞳は、ずっと遠くを見ているような気がする。

「わかったわよ。もうわかった。起こったことは諦めて受け入れるわよ。
そこまで好き勝手にされちゃったら、今更文句の言いようもないし」

それに、まぁ、今更『誰かの』幸せを祈るという。

そういう滑稽な話も、悪くはないと楓は思った。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「三ツ葉風夏はいつも適当で、強引で、刃向かうとすぐに機嫌悪く
なって面倒くさいし、本当にろくな女じゃなかった」
「ああ」
「だから、正直早く退院して離れたかったけど。それ以前にすぐ、風夏は
学校通うからって退院したのよ。まぁ、しょっちゅう病院には来て、色々
口やかましく訳の分からないことを話してったけど」

智也は足を組み、グラスを傾けた。喉奥に流し込まれる、成熟した
アイリッシュウィスキーの、クリアで華やかな芳香。

「あんたが来たのは何日か後ね。風夏に連れられて病院へ来て。
初めて出会って、今も続いてるわね。風夏が繋いだ腐れ縁が」

微かな笑みを浮かべて、じわりと染み込むような回想に揺れた。
記憶は鮮やかに。微かな痛みを伴って蘇る。

母親の死。そして父親。美砂。木桧まどか。佐木川恵奈 。一松香澄。
渋谷俊紀。

三ツ葉風夏……。

その名前を、特別な思いで振り返る。ついでに篠瀬なんとかといのも
思い出したが、それは即座に記憶から消し去った。

特別だった。三ツ葉風夏……は。

「風夏はまだ見つからないんだ」
「まだ探してたの? ……呆れるわ」

けだるい姿勢で、楓はうめくように。

「いなくなっちゃったんでしょ。じゃあ……もういないのよ。風夏は結局、
遊花の成長した姿も見ないで消えちゃったのよ」
「いないことを証明するものを見つけるまでは、俺は止めるつもりは
ないがね」
「まだ言ってんの。もういいわよ。よくよく考えてみたら、意味なんか
無いんだもん」
「楓が言い出したことだろう。『三ツ葉風夏に言いたいことがある』
それは嘘か」
「嘘じゃない--嘘じゃ、ない。けど、15、6年も見つからない相手を
どうするってのよ。もう諦めたわよあたしは。こだわってんのは……
あんただけじゃない。家庭もあって、可愛い娘もいんでしょ。それなの
に、十何年前に消えた女の事にこだわってんのは」
「そうだ。俺だけだ。三ツ葉風夏にこだわってるのは、俺だけだよ」

笑いながら智也は、身体をソファーに預けた。

「空にいると思い出すんだ。もしかしたら出会うかもしれないって。
コックピットの風防の外に、一緒に飛んでたりするんじゃないかって」
「そんなの化物じゃない」
「ああ。でもあいつは意外と空でも飛びそうだし」
「人間は生身で空なんか飛べないわよ」

そうだ。
人間は生身で飛ぶことなんかできやしない。

智也はグラスのウィスキーを飲み干して、立ち上がった。
ボトルを片手に。

「こいつは、あと半分も残ってる。飲みたきゃ、空にしていい。
残ったら棚に置いておいてくれ」
「残るわよ。そのままそっくり。そしてアンタがまたこの店に来たときは、
またこう言ってやる。『アイリッシュウィスキーなんて、アンタぐらいしか
飲まないから前のままになってる』」
「そうか。じゃあ、またな」
「遊花に会ってよ」

店を出ていこうとした智也を、言葉だけで追いかけるように。

「遊花に会って、あの子を抱きしめてやってよ」
「……三ツ葉風夏ができなかったように、か?」
「……」


  パタン

恩着せがましいことだろうか。
言わなくてもいいことだったろうか。

楓はずっと、琥珀色の液体を見つめたまま。
もう揺れることすらないそれを見つめたまま。

小さく。誰もいないスナックで、小さく呟く。

「誰かが……あの子を心から愛してやらなきゃ……
いけないのよ……足りないの……あたしは……何もかも……
足りない……母親なの……そうよ……あたしには……」


あんたのような、眩しい翼がないから。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「風夏がいなくなった?」

「……ああ……美砂も……」

「……美砂? 誰? 風夏はどこに行ったの?」

「わからない……」

「わからないって……どういうことよ! あたし、まだ風夏に
言ってないことがあるのに! 来週、退院する時には来るって
言ってたのに!!」

「探しに行く」

「探しに行くって、どこへ!?」

「わからない。でも、探さなくちゃいけない気がする。どこかは
わからない。でも、どこかにいるはずなんだ」

「……帰ってくるんだよね?」

「わからない」

「わからないわからないって、智也でもわかんないことがどうにか
なるはずがないでしょ!?」

「でも、行くしかないだろ」

「い、ぁ……行くって……でも……だって、どこに……
……あ、あたし……」

「今日はそれを言いに来た。ごめん。楓と遊花ちゃんの退院は
迎えに来られそうもない。じゃあ、元気でな」

「ちょっと、待って。あ、あたし」

「……?」

「あたし、い、一緒に行く! 行きたい! 智也と!」

「何言ってるんだ。そんな身体で。赤ん坊抱えてどこに行くんだよ。
第一、お前13歳だぞ。できるだけ学校も行けよ。ああ、俺の担任、
ちょっと変わってるけどある意味何でもありな奴で、
楓の話もしたら自信ありげに任せろとか言ってたんで、学校の
事はなんとかしてくれるから。知り合いの資産家の娘を脅迫して
どうだかこうだか。よくわからんが。中学校にも話ができるとか」

「いや、待って。あの、だから……風夏に言いたいことがあって、
あたし、一緒に行きたい。智也と、一緒に」

「風夏を見つけたら、必ず連れてくるから」

「あたしも行く!!」

「ダメだ」

「……邪魔……あたし?」

「そんなことはないけど……無理だろ。そんなもの」

「無理……なの? 一緒にいるってことも、無理なの?」

「そんなの当たり前だろ。風夏は必ず見つけるから。美砂も
絶対に」

「その……美砂って。誰?」

「俺の大事な人の娘だよ」

「その人……好きなの?」

「……まぁ、そうだな」

「……そうなんだ。アンタ、好きな人いるんだ」

「なんだよ。いてもいいだろ」

「そう。じゃあいいよ……どこに行くか解んないけど、勝手に行けば」

「なんだそれ。意味わかんない奴だな。じゃあ、行くぞ」

「知らない。もういいんだよ。もう! 行きたいところに行けばいい!
好きなようにすりゃいいでしょ! なんで、なんでそんなこと、
あたしに言いに来るのよ!! あたし、そんな……!!」


楓は、病院のベッドの上。
真っ白く糊の利いたシーツを掴んだまま、呻く。

既に誰もいなくなった病室で、呻く。


「そんなことされたら……誰だって……カン違いするでしょ……!」


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


智也は戻ってこなかった。
風夏も戻ってこなかった。

智也に再会したのは5年も経った頃。

また男に騙されて、身も心もボロボロになって。
二人の子供の手を引きながら。

また出会って。

「やり直せばいいんだよ。何度でも」

運命なんてこんなもんよ。
やり直したって、やり直したって、同じことの繰り返しよ。
わかるでしょ、智也。あたしを見て、哀れだと思うでしょ。

あの時、もしも智也があたしを連れて行ってくれてたら。
一体どうなってたと思う?

あたしはきっと、運命も変えられたんじゃないかって思うの。

そんなこと考えたってしょうがないんだけどね。
だからもういいわよ。そんなことは。


ただ、風夏に言いたいことがあるの。今だって言いたいの。

遊花にいい名前をくれて有り難うって。



雨が叩き続ける記憶の扉。
繰り返す物語を、楓は見つめていた。

そしてそのうちに、自分が泣いていることに気がついた。



(35)終

(36)へ続く
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