携帯ホームページ

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

Way to the blue 39話

(39)


比較的、町中にあたる場所。

木桧みずほの家がそこにある。

北海道らしい急傾斜の赤い屋根とクリーム色の外壁。関東と比べれば
その家はとても大きい。おまけに、バドミントンができる程度には庭もある。

その庭には枯れた花壇と、プラモデルを置くためだけに4年ほど前に建てた
プレハブ小屋がある。それではバドミントンはできない。せいぜい麻雀ぐらい
である。

青々と茂っている芝とほぼ同化してしまっている花は、その実、飽きっぽく
面倒くさがりな木桧美砂が、ちょっとした思いつきで育てて、ちょっとした
ことで忘れ去り、復活不能な状態にしてしまったところで見て見ぬ振りを
始めた結果、ちょっとしたこととなった。

今はまだ、太陽が昇る前である。朝露がぎっしりと水分をたくわえて、
舞い降りる時刻を待っている。

視線を上げていくと、庭に面した大きなベランダが二階にある。
ベランダには洗濯物を干すための棒。ハンガーなどが面倒臭そうに
ぶら下がっているが、今は洗濯物の姿はない。

汚れた窓。飛行機の模様が描かれたブルーのカーテン。

その中へ入ると、ぐちゃぐちゃに散らかった、例の部屋。木桧みずほの
自室である。相も変わらず、雑誌、ゲームソフトのCD、マンガ、お菓子の
空き箱があたり一面に散乱して、足の踏み場もない。
そういった状況でも、唯一ゴミの乗っていない部分。それはベッドの上。

赤と黒という、目の覚めるような配色のパジャマを着て眠る彼女の肩が、
微かに震えた。

そして、形のいい唇から、苦しげな吐息が漏れる。

汗のにじむ額を拭おうともせず。木桧みずほには、朝の美しい景色を
楽しむ余地もなかった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


澄み切った朝の空気。

森の緑色にもまだ染まらない、目覚めたばかりの空気は朝露の香り
だけを濃密に湛える。

冬になれば。

この空気は一斉に凍り付き、真っ白な砂糖菓子となってあらゆるものを
白く包み込む。
それは美しく幻想的であり、そして同時に、長く厳しい冬をいやがおうにも
実感させてくれる。迷惑であった。

それはどんなに願おうとも、4月までは続く。
また半年後には訪れる。

夏もそうだ。

短い夏の朝に、陽光とともに清められてゆく玉石の砂利をまぶしく見つめ
ながら、そう思う。
人生は長い。
あと何度も、……運が良ければ何十度も、こうして夏を迎える。

変わらない季節が巡る。

吉野千歳は、実家の境内の掃除をしていた。風に舞いとばされてくる
小さな葉枝がほうきとちりとりで集められる。

それもまた変わらない。日課のようなものである。
毎朝山に入り、罠に獣がかかっていないか。時には罠を仕掛けた場所に
人が入り込んでいないか……。

ふと、一人の男性の顔を思い出す。

学校で会うわけでもない。父親でもない。近所の顔見知りでもない。
山の中で出会った人のことを。

千歳は、ゆるやかな夏の風に揺れる自分の炎色の僧衣を軽く手で
押さえた。同じように揺れる長い黒髪も、そう。

心も。身体も。瞳の中さえも揺れているような気がした。

淡い色彩の夏空は、天高く突き抜けた遠点を示している。
そこにようやく、首を傾げるかのように昇り始めた太陽は、まだ赤さを
保ったままで。熟していない果実を思わせるように。

あと何十度の夏が巡ってくるだろう。

何十度の冬が巡ってくるだろう。

その中で、この一日は、ただ一度しかない。
そしてこれは恐らくだが、何年経ったとしてもこの夏は特別な思いで
懐古されることだろう。

……誰にとってもそうだ。
自ら肯定する。

ほうきを掃きながら苦笑した。当たり前のことなのだ。

大切に思える人との出会い。その季節を、決して忘れないだろうと
予感すること。

山の裾野にある高永寺から、常葉町を眺める。
緑豊かな街。田園風景の先には、遙か遠くまで続く青い海がある。

それらが交わる境界線。それは水平線と呼ばれる。
この世界の中で、海と空が交わるただ一つの場所……。


  遙か遠くから眺めれば、空と海は邂逅する。
  幻想であることさえ忘れれば……。


吉野千歳は想う。
朝もやに包まれる常葉町を眺めて、想う。

年月もまた同じなのだろう。こんな世界に暗示される皮肉に、ふと
悲しくなりながら、想う。

その距離を測ることは出来ない。
遙かに遠い。どんなに想いを馳せようとも、まだ遠い先には、果たして
交わりようがない二つの青い道すらも交差するのだ。

この世界はそんな奇蹟を共包する。
意味を求める人にだけ、その姿に気づかせる。

千歳は景色に心奪われていた。
景色に、心を映し込んでいた。

――あの水平線に辿り着くことを夢見て。
幻影とは知りながら。それを確かめたくて。

遠く、海鳴りが響く山の麓で。


-------------------------


鼻腔をくすぐるパンの香ばしい香りに、もやの中から出口を見つけたような
安堵感を覚える。

決して広くはないリビング。
小さな木造アパートの中には、ささやかに生きる家族が住んでいる。
どこか懐かしささえ感じる穏やかな空気。

調度品はアクのない、シンプルな物が多い。デジタルの壁掛け時計。
黄色いプラスチックの傘を被った丸い蛍光灯。。
白いシンプルなテーブル。シルバーの飾り気のない食器ラック。
床には少しすり減ったピンク色のラグ。……赤かった物が退色した
だけかもしれないが。

有沢高浩は、パンにバターを塗った。
常温になり柔らかくなったバターは、温かいトーストの上で消える。

やはり懐かしさを感じる。
遠い昔には、高浩も家族とこんな風に暮らしていた。

いつからだろう。互いにそっぽを向くようになってしまったのは。

「タカ兄ちゃんには、嫌いなものとかないの?」
「あまりないな」

問いかけてきたのは牧野遊花。
思考を中断してそれに答える。高浩は少しだけ申し訳なく思った。
こうして朝食の席に誘われながら、一人物思いに耽っている場合
ではない。

「これ、遊花が作ったのか?」
「うん、そうだよ。偉い?」
「ああ、偉いな」
「お母さん、遊花ほめられちゃったー」
「はいはい良かったわね」

母親である牧野楓がぞんざいにほめている。遊花は無邪気に
喜んでいるが。

高浩を囲むのはそんな家族である。牧野楓。彼女はスナックを
経営していて、朝方帰ってくる。今、午前8時だが、彼女はたった
今帰ってきたところだった。

それを出迎えたのは娘の牧野遊花であり、そして荷物の配達中だった
有沢高浩。
なし崩しのように、遊花が作った朝食を食べることになった。

「タか兄ちゃんあんまり食べてない」
「小食なもんでな」

本当は、ちゃんとふたえが作ってくれた朝食を食べているからだ。
もうすっかり満杯である。

そして

「遊花が“食”えっつってんだから“食”えよコラ」

早朝からリーゼントの(一体いつセットしたのかは解らないが)牧野琢男。
彼は牧野遊花の兄である。

ただし遊花は正真正銘、楓の生んだ娘であるが、琢男は父親も母親も
遊花とは違う。つまり一切血の繋がりがない。

それでもその、古風な不良である琢男は、遊花のナイトであるかのような
振る舞いを見せている。彼ら兄弟は難しい関係だが、どこかそれを
シンプルな形で体現しているように思えた。ただし、今日の格好は緑の
ジャージである。

「もう、おにいちゃん。そんな風に無理強いしたらだめ」
「チッ……遊花がそう言うならヨォ……」

朝食はトーストと卵料理とサラダというシンプルなものだが、いろいろ
取り分けたり、あれこれと飲み物を出したり仕舞ったり、遊花は
チョロQのように走り回っている。落ち着いて食べて良いと思うのだが、
どこかそういうのが似合う気もする。

「そういや、明日はお祭りじゃないの。ター坊、来るんでしょ?」
「来るって?」

楓は眠そうに高浩へと問いかける。多分寝間着であろうジャージに
着替えて、見た目ですっかりくつろいでいた。家でまで気を張る意味は
ないのだから、これが普通だろうが。

高浩がバターをたっぷり塗ったトーストを無理矢理胃に落とし込み、
問い返した言葉。

それを聞いて楓はちょっと楽しそうに笑った。

「そうね。お店を出すから」
「へぇ。何のお店ですか?」
「酒のボトルでくじ引きをすんのよ」
「へー……え?」

高浩は聞くだけ聞いてから、疑問符を浮かべる。

「子供向けじゃないですね……」
「店には酒のボトルばかり余ってるしね。本間さんのとか、戎さんのとか」
「いやそれ、人のお酒のボトルですか!? キープじゃないんですか!」
「いいのよ。死んじゃったり来なくなった人のなんだから。どうせ忘れてる
だろうし。誰か飲んでおいたほうがいいのよ」

商売にするのは罰当たりな気がする。

「まぁ、シャレだからさ。子供向けのもあるよ。ター坊のために、楽しい
オマケをつけてあげるからさ」

そう言ってウィンクなどをする楓は、確かに歳よりは可愛らしく写る。
コケティッシュな少女の雰囲気を持ちながら、大人の落ち着きも見せ
る。面白がるような目の輝きは、どこか濃色のルビーのようにせわしない。

若い高浩はつい、気恥ずかしくて目をそらしてしまう。

「お祭り、ずっと楽しみにしてたんだよ。タカ兄ちゃんも一緒に行こうよ」
「(ギラッ)」

可愛い視線と、淀んだ敵意溢れる視線の二つが同時に飛んでくる。
遊花と一緒にお祭りを歩けばそれは楽しいだろうが、この兄の反応を
見るかぎりでは、明らかに自分は邪魔者だと思われている。
琢男には。

「いや、えーと、誘おうと思う人が居るから。ごめん」
「えー! それってやっぱり、お寺の吉野さん?」

好奇心が遊花の目を一層輝かせる。ただでさえ他人よりも良く動く
瞳が。

「……えーと、まぁ、なんていうか」
「そうなのー。タカ兄ちゃんは浮気者だなぁ」
「なんでだよ。だいたい、そんなんじゃないって……」
「みずほちゃんともあんなに仲良くしてるのに」

その名前が出てきて、高浩は嘆息する。

「いや、それは全然関係ないと思う」
「そうかなぁ? アレとか。月方さんのところの万里さん。気が弱そうで
タカ兄ちゃん好み」
「何が好みだ。勝手に何言ってんだ」
「じゃあ、遊花が吉野さんの最大のライバルって事?」
「(ギラッ)」

いちいち琢男の視線が飛んでくる。怖いというか、気持ちが悪い。

「明日のお祭りって言うのは、そんなに盛大なんですか? 楓さん」

話を逸らすついでに疑問を潰そうとする。
一週間ほど前にもお祭りの話を聞いたが、町自体、その準備に
神経を注いでいる空気はある。当然、本部としてのテントや、中央
広場としての飲食用テーブルなどがすでに用意されている。
その数は百席以上。他にもベンチなどを作るため、数多くの資材が
集められている。

一部の農家などが、廃材などを利用して共同で準備しているのだ
そうだ。協力体制はさすが出来ている。

「そうねぇ。出店が150ぐらい出るし、田舎としては珍しいぐらいじゃ
ないの? まぁ、ほかの田舎のお祭りなんか見たこと無いけど」
「へぇ」
「なんだかね、農家のオジサン達の話だと、昔の町長? 坂井さん
とか言う人がお祭り好きな人で、いろいろコネで頼み回って、あちこち
から人を集めてきたっていう話」
「町長の坂井……って、俺のひいじいちゃんか……」
「あらそうなの? じゃあますます参加して貰わないとねー。ふぁぁ」

楓が大きなあくびをしたところで、高浩は席を立った。

「徹夜明けなのにお邪魔してすみません」
「若いのに変なとこ気使うのねター坊って。カワイイねー」
「いや、えっと」

さすがに可愛いと言われてしまうと、二の句が継げない。
楓はにこりと笑った。

「遊花が会いたがってるから、またおいで」

隣で何度も頷く遊花。そして歯ぎしりの音を隠そうともしない弟。
かなり面倒臭い雰囲気に、高浩は曖昧な笑みを浮かべてただ頷いた。

ザックを担ぎ直して家を出る。アパートは町のはずれの静かな場所に
あるが、そこには賑やかな日常がある。高浩が失ってしまった、温暖な
日常である。

誰かと暮らすこと。それは、かけがえのない幸せをくれるものだ。
その反面、別れが訪れれば、心に打ち込まれる楔は深い。
大抵は別れが訪れた後に、その重さに気づく。

そして回想する。あらゆる事を懐かしみ、失ったことを悔やむ。悔やんでも
何も取り返せないにも関わらず、人は誰も、悔やむことをやめない。

後悔は、人間に与えられた特権の一つである。

後悔にふさぎ込み、後悔に泣き、後悔に怒る。
それは高度な感情であり、同時に無為である。
現在は。

ならば。

明日は、無為ではない。
失ってしまった過去と、失ってしまったことを悔いた未来では、
見える世界が変わる。

過去は決して変えられないが、未来はこの手の中に眠っている。

太陽はまだ、低い。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


常葉町は、まさにお祭りムードである。

お祭りを明日に控えているのだから当然だろうが。

通りがかった商店街通り。藤ノ木ふたえの実家があるその通りには
閑散とした、しかし歴とした商業区域の雰囲気がある。元から。

それが例え、錆びたパイプとトタン屋根の銀傘アーケードでも、
ひび割れた舗装だらけの小道も、シャッターを閉めた多くの店も。
一応それは商業地域である。

それが今日は、出店の資材……テントの天幕のようなものや、青い
シート。スチールのパイプ。テーブル代わりに使う木の合板。コンロや鍋。
何に使うのか解らないが、丸い、真ん中に穴のあいた板もある。

ざわざわと騒々しい町の中央通りを抜けて、歩みを進めてゆく。

そういえば、と。
高浩はその通りの……藤ノ木ふたえの家族が経営しているコンビニ
エンスストアのすぐ近くの路地。そちらを見やる。

思い出したのは、そこが木桧みずほの家であるという事だ。

木桧みずほが朝早くから起きていることは、ほとんどない。だから
そこに視線を向けても、何も、どうにもなりはしない。

割と近い場所に、彼女の家を見つける。
車が見えた。
普段は、ガレージの中に入っている車が。

高浩は特に気にとめなかったが。

明るい日差しは木陰に揺れて、曖昧な宝石のように足下できらきら
輝く。涼しく澄んだ風はアスファルトの熱気をどこかへと運んでしまう。

そして海のにおい。潮騒はいつも遠く聞こえる。

高浩は石段をトン、トンと上がっていった。
小高い丘の上にある高永寺。そこへと向かう階段を、一つずつ一つずつ
ゆっくりと踏み、身体を押し上げる。

頬に当たる陽の光は、どこか強くなったように感じる。それは多分、
思ったよりもずっと時間をかけていたからだろうが、もしかしたら何メートルか
空へ近づいたために、太陽に近づいた……だろうか。

幻影だ。
何メートル、何十メートル程度昇ったところで、太陽へとどれぐらい
近づいたというのか。ましてや陽の強さを感じるなんて言うのは、錯覚
以外の何物でもないのだ。

しかし、人は錯覚にばかり頼って生きている。
錯覚ばかり覚えて生きている。

最上段へと辿り着く。
息がわずかに荒くなり、ふぅ、と、ため息のような深呼吸を一つ。

そして、お寺の境内へと辿り着くと、そこには彼女がいる。
そこにいてほしいと、高浩は願ったのだ。そうしたら彼女はそこに
いてくれた。

「……」

  チュン、チュン……

朝近いとはいえ、もうすぐ正午を迎えようとするのに、その鳥の声……
おそらくは雀なのだが、その声が大きく聞こえていた。

そう。ずいぶんとこちらも賑やかな声と言えるほど。

彼女は。
吉野千歳は、赤い僧衣を身につけて、お寺ではなく自宅脇の、まるで
自然に置かれたとは思えない大きな石に腰掛けていた。
1メートルぐらいの鏡餅とでも言おうか、漬物石と言おうか。
そういう印象を受ける石である。

「おはよう」

吉野千歳は、高浩を見ると表情を変えずに、挨拶を述べた。

「おはよう。千歳さん」
「うむ」

そこで、初めて微笑みを見せてくれる。ほんの少しだけだが。
こんなやりとりも、もう20度は続けてきた。
夏休みもまもなく終わろうとしている。
そんな現在まで、変わりようがないほどに。

「何を蒔いてるんだ?」

千歳は何か、小さな粒をパラパラと蒔いている。それを雀などが食べて
いるらしい。千歳の周りには、茶色や、青っぽい小鳥が十数羽集まって
いる。

「玄米だ」
「餌付け?」
「うむ」
「……これ、えっと」

おずおずと高浩が指を指す。雀たちに向けて。

「食べるわけではない」
「あ、そう」

ほっとしたようであり、ちょっと残念そうにも見える高浩。
すぐに気がついた千歳が、やんわりと否定する。

「パンくずでも穀物でも何でも食べるので、農家には嫌がられている。
食べてしまってもいいのだが」
「……うーん。いや食べない方がいいと思うんだけど」
「どう良いのか解らない」

表情を変えずに、千歳は問いかける。いつも通りに、長く艶やかな
黒髪は、今日はその大きな石の上に根を下ろしている。

高浩は少し困りながら、言葉を探した。

「いや可愛いし」
「可愛いから食べないというのは変だな」
「……意地悪いな」
「ふふ。冗談だ」

千歳は、高浩の前に手を差し出した。下に向けた拳を。
なんとなく、高浩も手を差し出す。こちらは手のひらを上に向けて。

「楽しいから。やってみたらいい」

手に持つ玄米の粒が少し、高浩の上に落ちてくる。かすかに湿ったような
茶色の米が。

「人間は優しいから、殺生を禁忌と考える。しかし殺生せずには生きられ
ないから、そういう選択もする。可愛い物を殺したくないと考える。人間は
身勝手だから、主観の中で取捨選択を行う。しかし可愛いから殺しては
いけないというのは、逆説的に……」
「……」

高浩の表情を見て、あ、という顔をした。千歳がそんな表情をするのを
初めて見たような気がする。それこそ不意に、手をくちばしにつつかれた
ように。

「いや、すまない。ダメだな。私は」

目を伏せ、コン、と、握り拳を作って自分の頭を軽く叩く千歳。

「可愛いから、好きだから守りたい。それで十分かもしれないな。私は
いつもこうだから、皆に嫌われてしまう」

高浩は肯定も否定もしなかった。どちらでもいい。どちらでも理想主義的
な考えだと思う。いわば……言うならば……

人間はもっと、根本では理性的でないかもしれないから。

高浩もぱらぱらと玄米を地面に蒔く。
たくさんの野鳥がそれに群がり、我先にと殺到する。都会のラッシュアワーを
見ているようだった。それが可笑しくて、つい笑ってしまう。
エサを求めて我先にと、電車へ分け入ってゆく姿は鳥と同じだ。
乗換駅の通路を走る姿は、出遅れてやってきた鳥のようだ。

「なんか、東京の朝の光景みたいだ」
「内地の人はエサの取り合いが日常的なのか」
「……」
「……すまない」
「ああ、いや、そう言われてみればそうかもしれないなと思っただけで。
エサの取り合いというか、時間の奪い合いみたいなもんかも」

高浩は笑う。考えることが、たまたま似通っただけに過ぎない。しかし
ほんの少しの交錯ですら、嬉しくなる。

「口が悪いことをたしなめられる事こそ日常的なのにな。私は。人の
事が言えるわけもない」
「千歳さん」
「なんだろうか。高浩」

高浩のことを真正面から、それこそ気恥ずかしくなるぐらい真正面から
見つめる千歳。きりっとした眉は松葉のようで。緩みのない唇は花弁の
ようで。二重の両目は鋼玉のようにハッキリと鮮やかで。つややかな
濡羽色の髪は夜の森のように静かな説得力を持っている。

「どうした? 高浩。お腹でも空いたのか?」

ああ、本当に。
こんな美少女がなぜ存在するのか。

問答無用の美人である。100人に聞いてみるといい。
きっと50人は『美しい』と言うだろう。
残りの50人は『最高に美しい』と言うだろう。

「な、なんだろうか。高浩。その、あまりそう、睨まれると緊張するのだが」
「ああ、いや、あの、なんでもないんだけど」
「なんでもないのか。良かった」
「いや、ええと、良くない……。あのさ、明日なんだけど。もし千歳さん
さえ良かったら、なんだけど」
「明日?」
「常葉町でお祭りをやるんだって言うから」

すぐに思いついた千歳は、頷いた。

「ああ。お祭りだな。それがどうかしたのか?」
「一緒に行かないかなと思って」

その時、千歳は。

「ああ。わかった」

なんのためらいもなくあっさりと頷いた。高浩が拍子抜けして、転んで
しまうぐらいにあっさりと。

「い、いいの?」
「別に構わない。どちらにしろ、行く予定だったから。高浩も行こう」
「え?」

そう言われて、反射的に尋ねる。

「……誰か、一緒に行くことになってたの?」
「うん、智恋とだが?」

沈黙。
高浩の表情が、まるで苦すぎるコーヒーを飲んだように歪んだ。

「う……、え、えっと、そうなんだ。あの人も行くんだ……」
「高浩は智恋が嫌いなのか?」

ああ、と頷きかけて。

「いや、嫌いってわけじゃなくて苦手っていうか……なんかこう……」
「そうか。私は毎年、智恋とお祭りに参加する。5年以上も変わらずに、
小学3年生ぐらいの頃からか。智恋は普段外に出ないが、お祭りには
必ず参加するから」
「なにか理由があるの?」
「ああいう、ちょっといかがわしい事が好きらしい。賭事も好きなようだし、
科学的に説明が困難な熱狂とかなんとか。型抜きを2時間はやって
いるほど真剣に没頭する。見習いたい集中力だ。あれだけできれば
きっと私も、学業がはかどる」
「(動機が不純すぎて学業に使えない気がする……)」

嘆息して、高浩は首を振った。

「邪魔しちゃ悪いな。明日は、みずほたちも誘って行くことにするよ」
「気にしなくていいのに。遠慮なんか」
「いや、どちらにしろお祭りの中で会えると思うし」

千歳は何か言い掛ける。『き』という言葉を作ろうとした唇。それが硬直
したまま、動かない。

やがて、諦めたような表情を見せた。しかし、その言い掛けた言葉の
意味を探ろうとしても、彼女の表情からは何も読みとれない。

「そうか。わかった。何か、すまないな高浩」
「俺が悪いんだ。前日に言い出してもしょうがないよ。先の約束を優先した
ほうがいいと思う。うん」

言葉の半分には、智恋となるべく会いたくないというものも少し含まれて
いるのだが、もちろんそこまでは言わない。

千歳の方は、その言葉を受けて嬉しそうに微笑むが。

「ありがとう高浩。私などを、わざわざ誘ってくれて。その上、許してくれる
など。私としてはどうお詫びしていいかわからない」
「別に構わないよ。そんな」
「本当だろうか」
「本当に」
「本当に?」
「本当だってば」
「……本当なのか」
「本当だって!」

高浩が念を押すように強く言っても、彼女は晴れない表情のままで。
空はこんなに明るく晴れ渡っているのに、雲を一つ残したように。

「高浩に嫌われてしまったら、私はまた、大切な物を無くしてしまう」

千歳が言ったその言葉は、高浩を少なからず驚愕させた。
ひどく狼狽もさせた。
どうしていいかわからず、困惑したままで首を振る。もちろん横に。

「そんな心配はしなくてもいいよ。千歳さん」

千歳が悲しそうな顔をする。
とても素直に、正直に。

もしかしたら、千歳は生まれてからこれまで、嘘らしい嘘をついたことが
ないのではないかと思ってしまう。
それは罪を作らないためなどではなく。
聖職者としての理を重んじているという事でもなく。

ただ、彼女は……。

「そんな心配は、しなくていい」

その言葉を繰り返した高浩は理解する。
吉野千歳は、母親との離別を自分のせいだと感じている。

記憶もないほど遠い昔の事を、自分の人生に重ねている。

高浩は、怖かった。
正直に言ってその時、本当に怖くなった。

例えば、
10年後の自分もこうして、失うことを恐れるようになるのか、と。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


長い階段を下りてゆく時に。

高浩は、鼻の奥がつんと染みるような感触を覚えた。
見上げれば、遙か遠くまで続く空と海と、そして緑がある。

うずくような痛みは、悲しみにほかならない。
それはまるで青い道のように、彼方へと続いていた。

彼方は、焼き付くような色彩で脳の中へ飛び込んでくる。

高浩は携帯電話を取り出して、その景色へと向けシャッターを切った。
こちらへ来た頃、頻繁に取り交わしていた東京の友人とのメールは
ほとんど無くなっている。

話す中身もなかった。

交わす言葉もなくなった。

どこにでもこんなに美しい景色があり、優しく、純粋な人たちがいる。
それに比べ、あの東京の無味無臭さは何だろう。
確かにそこに同じ人間がいるのに、まるで浴槽に角砂糖一つを落とした
かのように、希釈されてしまう。
彼らにも、彼女らにもたくさんの人生がある。
それは華やかで楽しげでもあれば、暗く、重いものもある。
……自分のように。

高浩は自分が後者だと認めて、続ける。

しかし、どこか人生すらも薄い。
浜風にずっと揺られながら、こうして道を歩くこと。
人と出会うこと。
それがあまりにも、都会では『無価値でありすぎた』。

人は、本当は。
孤独だ。

この町はもっと孤独なはずだ。それなのに……。

たばこの匂いがする。
不意に立ち止まり、高浩は。

「どうした?」

階段の下から、声がかかる。

「人ん家の前で、なにをぐずってる」

階段を下りきったところ。石段の二段目に、吉野洸清がいた。
僧服ではなく、紺色の甚平のようなものを着て、たばこを吹かしている。

くしゃくしゃの髪の毛。無精ひげだらけの顔つき。細く鋭い体躯。
座ったまま、のけぞるようにして高浩のことを見ていた。

「何してんですか」
「ほら、ここに座っているとだ」
「はい」
「降りてくる女の子のパンツが見える」
「死んでください」

あっさりと言い切って、高浩は階段を下りた。配達する場所は残っている。
別に暇な時間なんて無い。

いずれかへと。
どこかへと。

向かおうとするその足が、止まる。

「どうした?」

吉野洸清が、もう一度尋ねてくる。
そう。

様々な問いかけが浮かんでくる。本当は、たくさんのことを聞いてみたかった
のだ。この人に。

だが、高浩はそれをしようとしなかった。
そうする意味を考えていた。
ずっと。ずっと。

配達で、こうしてたくさんの人に出会いながら、高浩は誰にも、何も聞こうと
しなかった。
何か尋ねれば、正解か不正解かはわからなくても。
正確か不正確かわからなくとも。
少なくとも答えは返ってくる。

今まではそうしなかった。あえて聞きづらいことを聞こうとしなかった。
面倒だったってこともある。自分には関係ないと思っていたこともある。

自分が常葉町から帰ろうとしたとき、木桧みずほが、やたらと怒っていた
事を思い出した。そうだ。人に対して熱心なんだ。
お節介なほどに熱心なんだ。

高浩は、臆せず尋ねた。もう、そうする決心は付いていた。

「聞きたいことが」
「ほう?」

吉野洸清は首を傾げて笑った。

「質問をされても、俺には何にも答えられんかもしれんぞ?」
「俺にだって、聞く権利ぐらいはあると思いますが」
「そうか。まぁ、そうかもな」

笑いながら吉野千歳の父親は、足下にたばこを落とした。

「あるかもしれねぇし、ないかもしれねぇ」

そして今度は、落ち着いた声で。どこか冷淡にも聞こえる声で。

「で、何が聞きたい?」

正面から吉野洸清を見つめて、高浩は問いかけた。
その質問の意味はわからない。
しかし、彼はそれを疑わずに。視線を逸らすこともなく。

「千歳さんの母親は、なぜ家族を捨てたんですか?」


人通りのない、寺へと続く石段の下。

遠く、海鳴りの響く木陰で。



(39)終

(40)へ続く
スポンサーサイト

| 連続小説 Way to the BLUE | 18:07 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

PREV | PAGE-SELECT | NEXT