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Way to the blue 40話

(40)


「千歳さんの母親は、なぜ家族を捨てたんですか?」

ざっ……

道路を包み込むように生い茂る街路樹と、その足下で繁茂する
青々とした細い雑草。黄色く色づいたタンポポ。それが、海風に
さらわれまいと身をすくめる。その音が、騒がしいほどに。

「捨てた、か。えらい言われ様だな。会ったこともない奴が」

……騒がしいほどに、耳に飛び込んでくる。

その後の沈黙は雄弁だった。何かの本で読んだように、その沈黙が表す
言葉は、あまりにも意味を持ちすぎていた。質問の意味を遙かに超える
ほどに。

「何でそんなことを聞くんだ――」
「……それは」
「とは言わねぇよ。別にな。質問に質問を返すようで嫌だろう」

高浩が口を開くより早く、そう言った吉野洸清は、ニヤリと笑う。

「そう緊張すんな。別に、聞かれて困る事じゃない」

高浩はそう言われて初めて、自分が手のひらに汗をかいていることに
気づいたほどだった。

「なら」
「聞かれて困る訳じゃないが、誰も聞かなかったな」
「え?」

意外な言葉だった。

「誰も聞かなかったよ。和尚もな。あいつの親御さんもだ。俺には、
何も聞きやしない」

そう、遠く空を見ながら呟く吉野洸清の顔は、どこか寂しげだった。
高浩には、少なくともそう見える。

「誰も聞かなかったから、何も言わなかったんだよ。俺とあいつが別れたのを
まるで腫れ物に触るような空気で、そんなもんだから俺も、誰かが聞いて
くるまでは、答えないようにしようと思った」

素朴な疑問を口にする。

「千歳さんは?」
「千歳はまた別だ。あいつには別の意味で、教えられん」

そこまで言って、洸清は笑い出した。小さくだが。

「こうも単刀直入に切り出されると、笑いたくもなるな。家族を捨てた、か。
確かにその通りかもしれん。だが、まぁ人には人なりの事情もあるし、後悔も
同じほどにある。まぁ、たいした話でもないさ。実際の所は」

不意に遠くから、祭り囃子が聞こえてきた。
予行演習だろうか? 

遠く遠く……。
かすれそうな太鼓の響きに、ざわめきが折り合う。木々はゆらめいて、青々
とした姿がまるで大勢の人が囃し立てるように。

「渚が出て行ったのはもう12年も前の話だ」


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


吉野洸清は、若かった。
若くして家庭を持ち、そのことに充実感も得ていた。
彼の妻となった渚も、また若く。それぞれが家族を愛している。
5歳になったばかりの千歳は、その愛情の象徴でもあった。

ある日。

吉野洸清が檀家の元から帰ってきた、夕刻。

「今帰ったぞー。うーい、渚ー。おー」

玄関を開けると、リビングの方からてくてくと千歳が出迎えにくる。

「なんだなんだ。千歳はいつも出迎えてくれるなー。サンキューな。
よしよし。ママはどうした?」
「……んー……ママ……」
「わかんねーか。そかそか」

大柄な洸清が千歳を抱き上げる。草履を適当に玄関に残し、洸清は
家のリビングに入る。

そこに、吉野渚は寝ていた。

「ったく、寝てんのか」

洸清は怒るでもなく、微かな笑みを浮かべた。
昼間も、実家の定食屋で働いている渚は、夕刻になるとよく
居眠りをしていた。

抱き上げていた千歳を絨毯の上に降ろす。千歳は、そのまま声も発さず、
ぺたんと座り込んだ。

低いテーブルにうつ伏せになり、すうすうと寝息を立てる渚の肩に、
傍らに落ちていた毛布を掛ける。

そして。

少し茶色がかった髪を撫でて、洸清はため息をついた。

「ぱぱ」

千歳の声に、はっとする。

「ああ。悪かった。ママはお休みだから、今日はパパが晩飯作ってやる
からな」

洸清は渚の傍らから立ち上がって、再び千歳を抱き抱える。

「パパの料理は好きか? 好きだろそうだろ」
「きらい」
「まぁ、そうか。焼くもんか生の物しか作らねえし、そんなもんか」

千歳の頭を撫でて、洸清は。

「ママは忙しいから、寝かしてやろうな」

そう呟いて、視線を落とした。
その先には、開け放ったままのスケッチブックがある。

千歳が落書きしたウサギに、明らかに子供の手によるものではない、
色鮮やかな服が着させられていた。千歳のクレヨンではなく、色鉛筆で。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「美術の学校に行っていたらしい。それなりにランクも学費も高いらしいが、
俺はよく知らん。渚は素質があった。服をデザインするのが好きで、子供と
一緒に絵を描いていた」

そう語る様子が、高浩には不思議に感じた。
なぜか、言葉が重い。

悲しみを記憶から引き出してくるような、口振りで。

「知っていたんだよ。渚は、昼間も定食屋を手伝いながら小遣いをためて、
大学に払っていた。学籍は休学のままだったんだ。5年間も、無駄に金を
払い続けていた。同じようなことが何度もあった。ある日の夜に」

高浩は視線を上げる。同じように、木漏れ日を眩しそうに顔で受けている
吉野洸清を見つめて。

「ある日の夜?」
「ああ、そういやこんな風に夏祭りも押し迫った夏だったな。いや、夏の
終わり、か。季節ってのは、終わるときには人の心をかき乱す。
春から夏、夏から秋、そして、冬」

晩夏の涼しげな風を、頬に受けながら。
それは互いの髪を揺らしている。高浩の黒髪も。洸清の結わえた長髪も。

「季節がうつろう度に、何かが失われ、何かが生まれる。仏様が俺達を
結びつけたように、この世も輪廻の中で動いている。渚には渚の求める
生き方があった。止めようがないほどに、そうだった」


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


千歳は景色に塗り込んだような青い空を眺め、ほう、とゆるやかに息を
吐いた。

その吐息は、おもむろに風が奪い取ってゆく。

揺れる髪の毛を押さえて、立ち上がった。立ち去った人の足跡でも見つから
ないかと向けた視線。獣の足跡は容易に残される割に、人の足跡は何も
残らない。

人間が残す物は、記憶だけだ。

「そうだ」

朱色の僧衣を手で払い、家の方へ歩を進める。
千歳はサンダルを脱ぎ、土間を駆け上がった。さらには黒ずんだ
きしみのひどい階段も同じ早さで上り、普段はあまり入らない部屋に
入る。

言うまでもない暗闇。手で壁を探ると、すぐに電灯スイッチのパネルが
触れる。

そこはドレッサーのような、言い方を変えれば物置部屋である。
ずいぶん長い間、誰もさわっていない。片づけてもいない。およそ、数年は
間違いなくそうしている。
つまり、意図的な放置を。

吉野洸清だけではない。吉野千歳でさえも、滅多に触れない部屋。
そこにあるのは、そこにいないもののための……。

この部屋の空気を嗅ぐと、鼻がじんと痛む気がする。それが埃っぽいせいか、
空気が乾燥しているからか、それとも胸に仕舞い込んだ慕情という名の
蝋燭に火が灯されるからなのか、それはわからない。

涙は出てこないが、それは……。

「私が泣けないのは、きっと母親から、泣くことを教わらなかったせいだな」

吉野千歳は口の端だけを上げて笑った。そして、母親の残していった
衣装ケースの中を探して、目当ての物を見つけた。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「いつまで大学の金を払い続けるんだ?」

若き日の吉野洸清は、苛立ちを隠せない様子でそう尋ねた。渚はただ、
うつむいたまま黙っている。黒い麻生地のワンピースの裾を、両手で握り
しめて。

リビング。壁掛け時計の音がカチカチと響く。時刻は夜十時を回っていた。
この田舎では住民の全員が眠りについてもおかしくないような時間である。

吉野千歳も例外ではなく、二階の夫婦の部屋のベッドで寝ている。
先ほど渚が寝かしつけたままの姿勢で、だろう。
お絵かきが好きな娘は、寝るときも絵本を好む。

この時間には、むしろ真昼の乾いた風はなりを潜める。
暗い闇夜に混ざり込んだような、ひんやりとした湿っぽい空気で満たされ
る。山村のそれにも近いが、漆黒の海がそのまま空に混ざり込んだような
うら寒い感覚である。

「俺は、お前の身体を案じてんだ。身を粉にして働いて、育児もやって、なぜ
そこまでして休学している大学に金を払い続けるんだ?」
「別にいいじゃない。そんなこと。あたしはちゃんとやってるんだから」
「良くねーよ」

寝間着兼用の作務衣のポケットから、タバコを取り出す。
渚がそれを見て、眉をひそめた。

「タバコはやめてって言ってるでしょ」
「俺がタバコをやめたら、お前は大学を辞めるか?」
「なんでそんなこと。全然関係ないじゃない。なんでそんなに大学のこと
気にするの。あなたには、何の迷惑もかけてないのに」
「渚、お前がいつまでも、デザインの仕事への未練を持ち続けているのは
解ってるんだ」

かまわずタバコに火をつける。そして洸清は、苦笑しながら吐き捨てた。

「ハッキリ言ってしまえば、復学してぇんだろ」
「千歳がいるじゃない」
「矛盾するな」
「あなたが言う仏様の言葉で言うなら、人は迷うものでしょ」
「そういう迷いじゃない。それはただの我慢だ」
「なんで、そんな。バカみたい。バカみたいよ。あなた」

渚は苛立ちを隠そうともせず、短い髪の毛を右手で撫でつける。
落ち着かないように視線をさまよわせて、そして。

「そんなこと言って私がどうなるってのよ。今の生活はどうなんのよ。
千歳は? あなたは? どうなるってのよ!」
「そうじゃない。今の生活が不満なら」
「不満なんか誰にだってあるわよ!! どこにだってあるわよ!!」

バン、という音と共に、テーブルの上の湯飲み……中身は焼酎のお湯割り
だが、それがわずかに跳ね上がった。

右手を低いテーブルに叩きつけたまま、渚は頬を紅潮させている。

「誰も彼もが自由に生きてるわけじゃないでしょ!! あなたのように!!
そうよ、私は我慢してるの。してるのよ。だから何だって!? こうやって
無意味な嫌みの応酬をすることで、気でも晴れるわけ!?」
「千歳も4歳になった。お前はやりたい事を我慢しなくてもいいんじゃねぇかと
言いたいだけだ」
「……我慢……? 私が、そんな風に見える?」
「ああ。そう見える」
「……そう、思う?」

洸清をまっすぐ見つめる瞳は、僅かに滲んでいるように見える。
彼の気のせいでなければ、だが。

「ああ。そう思うさ」


誰だって、そう思う。
誰だって。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


そして、渚は出て行った。

「つまらん話だろ」

吉野洸清は笑う。それが本音かどうかは知らないが、それが作り話で
ないことは瞳の暗さで気がついた。吉野洸清は、うなだれているのだ。

真正面を向きながら、心はうつむいている。思い出はからみつくような
不快感を伴って、どくどくと湧き上がる。

「本当につまらん話さ。人が夢を追うことは、他者には眩しすぎる」

それが間違っているとは言わない。
洸清は言わない。

高浩に言うのを躊躇うのか。それは嫉妬だと、感じさせるからか。
高浩はやるせない気持ちで首を振る。わからない。高浩には、とても
つまらない理由に思えるからだった。

「(たかだか、夢とか願望のために子供を置いて遠くに行けるか?
そのせいで千歳さんは、ずっと悩んできたんだろ)」

彼女が、親に逢えない悲しみをどれだけ抱いてきたかはわからないが、
その悲しみの深さは知れる。
それが解らないから、大人のやることはいつも身勝手で、受け入れがたい
ものになる。

「大変だったなぁ。幼稚園に入る直前ぐらいの子供を男手で育てるのは。
絵本を読んでやっても泣いてばっかで寝付きやしねぇし。読経してるときに
邪魔しにきたり、壇家のところに行くにも誰かに預けなきゃならねぇしな。
また千歳がよく泣くんだ。母親がいなくなってから。寂しがってな。それで
一生分泣いたのか、あんな風に仏頂面になっちまって」

残された者の気持ち。

帰る人。行く人。

失われてゆく時間と記憶。

その価値は、失うことでしかわからない。決して、他の誰にも。

「それで、渚さんは?」
「わからん」
「……わからない?」

洸清はもう一度、首を横に振った。

「わからん。どこに行ったか。はじめの頃は便りもあったが、次第に届かなく
なっていった」
「……それは」
「下宿先にも行ったが、管理人も解らないと言っていた。家具もそのままで、
身の回りの物だけがなかった。事件に巻き込まれたか、はたまた……」
「だけど、わからないっていうのは」
「……」

いくらなんでも、行き先が全く解らないなんていうのはありえないと、高浩は
言い掛ける。言い掛けて、語尾を飲み込みながら。

解らないなんて事になったら……。

「失踪した、って事ですか?」
「ああ……」
「何も言わずに?」
「そうだ。何も解らないままだ」

高浩は、吐こうとした息が喉の奥に引っかかったような心地に襲われた。

わからない。

そんな事になったら、その話を聞いてしまったら。
千歳はどんなことがあったって、母親のことを探しに行くだろうと思う。

いや、探す。
何も言わないが、おそらく、この父親も探したのだろう。探さないはずがない。
そもそも行かせたのは優しさだった。過ぎた優しさと言える。
探さないはずがなかった。どれほどか、わからないが。心境も壮絶だろう。

娘にも同じ事をさせようとは思うまい。

「わからないことが、わかりたいと思って今まで過ごしてきたんです」
「ん?」
「この町では」

高浩は首を振り、うなだれた。

「両親が死んだ理由を求めて。わからないから、わかりたくて」
「ああ、まぁ、そういうもんだな」
「千歳さんもそうだろうと思います」
「若いからなぁお前らは」

若いから、だろうか。
大人になったら、わからないことはわからないままにしておこうと考えて、
このもやもやした物をどこか、土の中にでも埋めてしまえるんだろうか。

「自分はまだマシなんじゃないかとさえ思います。生きていることも、死んで
いることもハッキリとしている。でも、千歳さんにはそれすらない。生きているなら、
探したい。死んでいるとしても探したい。まるで感光したフィルムの中身を
現像したいと願うようなものであっても。だって、人ってそういうもんじゃないですか。
自分を縛り付ける物を断ち切って、高く飛びたいと願うもんじゃないですか。
嫌なんですよ誰だって。過去に縛り付けられることなんか!」

「誰だって、過去に縛り付けられるのは嫌、か」

ゆっくりと呟いた洸清の言葉が、真夏の空気の中へ墜ちていくようだった。

「誰だってそうだ。だから、俺だってそうだと思う必要はないさ」
「っ……いや、俺は」
「いいんだよ別に。そんなもんだよ。お前の言ってるとおりだ」

たしなめられて、そして思いもよらず肯定されて、高浩はしどろもどろになる。
洸清は笑った。

「若ぇうちにはそんな風に考えるもんだ。いつまでも過去に縛り付けられた
ままで居たいなんて考える方がおかしいだろう。だから、考えるんだ。
生きている俺達に必要なことは、忘れることではなく、許すことだろ」

表情は柔らかく、どこか寂しげに。
夏用に薄い生地で作られた紫の僧衣が夏風に揺れている。

それは、彼女とまるで同じ雰囲気だった。
何か揺るぎないものを抱えたまま、生きる。
境内に佇む、長い髪の彼女と瓜二つだ。やはり根本的な部分で、親子に
は繋がっている部分があるということなのか。

高浩は、頭を下げた。言葉を交わしてくれた事への、単純な感謝のために。

「失礼します」
「おう。どこ行くんだ。配達は終わりか?」
「みずほの家に用があって」
「隅に置けねぇな。うちの娘と両天秤とは泣かせるぜ」
「からかわないでください」

はは、と軽く笑う。
吉野洸清は、石段に腰掛けたまま背伸びをした。

去ってゆく若者の背中を見つめて、誰にも聞こえないほどに小さく、
ぽつりと、呟く。

「忘れちゃいねぇんだよ。誰も、誰のことも、な」


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


あーくん。


あーくん。

「あーくん。どこにいるの」

その時、いや、『その時』という言い方が正しいかどうかはわからない。
それは過去であり、事実でありながら、確かめようがないものである。

うっすらと霧がかかったような景色は、何を表しているのだろう。

時間の感覚も、上下の感覚もない。いや、感覚? それは感じて
いるのだろうか? ここは地球なのか?

木桧みずほは、もどかしく両手を振った。すぐ近くに見える大人の手。
自分の手は、それよりもだいぶ小さい。

男の手だ。
彼女のことを抱き抱え、名前を呼ぶ。

「君が、白石美砂の子供、か?」

頷きもしない。
その夢は、それだけで終わる。それだけで、すぐに終わる。

姿は、霧の中で見えない。それでもわかる。
それが父親であることが。父親の、安倉木智也であることが。

父親は突然現れて、そして言った。

「君が、美砂の子か。そうか。美砂は、君を生んだのか……」

ひどく胸が苦しくなる。
泣きたいのに、涙がどこかへ行ってしまったように出てこない。

生まれてこの時まで、父親を知らなかった自分が哀しい。

霧の中にあっても、はっきりと彼の翼が見えた。真っ白な翼が、彼の
背中にあった。彼女が初めて見た……いや、二度目に見た『翼』。

安倉木智也。

父親の姿は、やがて消えてしまう。
そう、これが夢だからだ。

夢は終わる。
ふわふわとした、ひどく静かな夢が終わる。

急に赤い光が辺りを包み込み、目を灼くほどに輝いた。
霧が晴れて、青い世界の向こうに。まるで道のように続く青い
世界の向こうに、赤く輝く宝石のようなものがある。

それは手に出来ないほどに遠く、そして眩しすぎる。
だが、わかっているのだ。

「あーくん!!」

そこに溶け込むように、ひとりの子供の姿があることに。
それに近づこうとしても、絶対に近づけないことに。

「あーくん、行かないで!! どこにも行かないで!!」

真っ赤に焼ける景色。
消えてゆく、青。

翼……。



「誰だよ。ったく……――も、ひどいな。――うか?」

不快な振動。
それが自分の心臓の鼓動だと気がつくまで、彼女は言葉を聞いていた。

目を覚まして。

自分のベッドで。

木目のある天井は不思議と高く思えた。そして、首の辺りに感じる
鈍い痛みと違和感。こみあげる……。

「ごほっごほっ」

咳をしたいという止められない衝動。

木桧みずほは、視線を泳がせて意味を理解しようとした。飛行機の
ポスター。あれは紫電改だ。乳白色の壁紙。木目の天井。ブルーの
羽毛掛け布団。読み散らかしたマンガが5冊、枕元にある。ベッドの下は
ほとんど掃除もしないカーペット。糸クズと髪の毛で原色を保っていない。

「やっと起きたか。もう昼だぞ」

その先。遊びっぱなしのゲーム機の残骸の傍らあたりに、男の姿。
立て膝で絨毯の上に座る、有沢高浩。

どうして、彼がここに?
みずほはハッキリしない脳内を、どうにかすがるような気持ちでかき回す。
呼んだ記憶はない。それに、自分の体の状態……。

熱い。
いや、違う。むしろ寒い。ひどく寒い。それなのに汗は、止めどなく流れる。
これは風邪だ。絶対風邪だ。
そういえば何時間か前に一度目覚めたときも、違和感があった。

「……うか? って何……」

尋ねる。尋ねたいことはいくらでもあったが、とりあえず、尋ねる。

「ああ。だからさっきから聞いてるだろ」

高浩はため息をつきながら、返答した。

「脱がそうか?」
「死ね」

即答し、自分の右手で自分のおでこを触る。

「なんでいんのあんた」
「いやまぁ、色々あってな」

みずほは、自分自身で自分の体温がわからないことに苛立ちを
覚えた。枕元に転がっている携帯電話を手に取り、二つ折りの
それを開く。時刻は、11時19分。

「まだ11時じゃないの」
「何がまだなのかよくわからんけども……なんだか。畜生。そうか。
そういうことか」
「? 何のことよ」
「風邪で熱があるって、普通に病気じゃねぇかよ。あの人は……」
「いや、何のこと? 本気で意味わかんないんだけど」
「美砂さんだよ」
「母さんがどうかした? ごほっ」
「みずほが調子悪そうなんで、バイトが終わるまで面倒見てくれって
言われたんだよ」
「ああ……なぁんだ。そういうこと」
「言われて二階上がってみたら、うんうん唸りながらあーくんとか、聞いた
こともない名前をうわごとで言ってる女が、ゴミだめの中で寝てるし」
「悪かったわねゴミだめで。マジで調子悪いんだから帰ってよ」

ブルーの掛け布団をかぶる。寝言が聞かれていたのは痛恨だった。
それを悔やむよりも先に、咳が出る。

「ごほっ、ごほっ、なんなのこれ。咳止まらない。あのさわたし、もしかして
風邪なんじゃないの?」
「もしかしなくても風邪じゃないか? 熱が39度ある」

高浩は体温計を見せた。ちょっと古めかしい水銀体温計である。

「なんで体温知ってんの」
「そりゃ、計ったからな」
「いつ」
「みずほが寝てるときに」
「どうやって」
「口につっこんで」

マンガの本が高浩の耳をかすめる。
寝ながら手裏剣でも投げたような姿勢で、しばらく腕を上げていたが
みずほもやはり辛いのか、腕がぱたりと落ちる。

「人が……寝ているときに……痴漢行為を働くなんて……ごほっ」
「いや医療行為だと思うが……」
「どこがよ! 乙女の口の中に卑猥な棒を突っ込んで!!」
「言い方が最低だな。楽しそうにうなされながら、寝言を言ってたもんで
起こす気にならなかったんだよ」
「どこの世界に楽しそうにうなされる人がいるのよ……本気で嫌だった
んだから……ごほっ……起こしてくれれば良かったのに」

うつぶせになり、枕に顔を押しつけながらうめく。
パイプ枕がじゃら、と軽い音を立てた。いっそのこと、本気で脱がしておいて
もらったら、こんな話をする前に殴り殺せていたのにと思う。

「寝言、聞いてた?」
「あーくんって奴?」
「ああうん、まぁ、そうね。あーくんね。お父さんの夢だったり、あーくんだったり、
色々あったけど。ま、どっちにしろあんまり楽しい夢じゃないし」
「あーくんって、誰のことだ?」

誰の事だっていいでしょ……。
と、みずほは言い掛けて、やめた。

ぼんやりと、天井を見上げながら。少しだけ沈黙する。息すらも、止めて。

唐突に訪れた静けさに、高浩は所在なさげだった。
少し笑う。

――別に、尋ねたことを気に病む必要なんか無いのにね。

「あのさ、高浩」
「なんだよ」
「あんた、どのぐらい昔のことを覚えてる?」
「どのぐらいって?」
「どのぐらい……昔のことを、覚えてる? 自分の中で、一番古い記憶って、何?」

どこかもごもごした口調なのは、うつ伏せの姿勢だから。
まさか、問いづらいわけじゃない。きっと。

高浩は水銀体温計を振るのをやめて、考える仕草をした。

「幼稚園の頃かな」
「ごほっ、どんなの、だった?」
「ベランダから落っこちて、足を折った」
「……」
「傷跡がかすかに残ってるけど、見るか?」
「いや、いい」
「そうか。子供の頃の怪我って面白いよな。どんどん移動していくから。で、
それがどうかしたか?」
「あーくんの事、よ」

うつ伏せになったまま、布団から足を出す。
別に意味はない。暑かったというだけだ。寒くもあるのだが。

少し、そのまま背伸びをする。咳こみながら、深呼吸をして。
熱い吐息を絞り出す。熱を放出するように。

「わたしの初恋だったの」
「……ふぅん」

高浩は、それだけ言う。みずほは小さな笑みを浮かべた。

「なによ。ジェラシー?」
「ねーよ」
「大丈夫よ別に。ライバルとかじゃないから。高浩は5段ぐらい落ちるし」
「だから知るかよ。そんなもん」

今度はそっぽを向く高浩が、おかしかった。
からかうのは楽しい。
言葉だけで、怒ったり笑ったりする。
それはとても楽しいことだ。

記憶。
それを引っ張り上げてみる。

最後のか。

最初のか。

名前を呼ぶ声。

忘れようとしても、忘れられなかった記憶。

「初恋ったって、相手は存在しないんだから。ノーカウントみたいなもんね」

目を細めて、怪訝そうに視線をぶつけてくる高浩に、みずほはうつぶせに
なったままで、首を傾けた。

ごほっ、と、咳をする。それと同時に、ため息をついた。

まるで、そう。
ずっと、溜めていた毒を吐き出すような気持ちで。
熱病の中で、幻を追うように。

「あーくんは、この世にいない、私の一番古い、遠い昔の……記憶にいる、
 この世のどこにも存在しない子供……。
 もし、高浩に興味があるんなら聞かせてあげようか?
 父親がいない女の子と、存在しない男の子の……お話」


誰も忘れていない。

誰の事も、忘れていない。



(40)終

(41)へ続く
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