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Way to the Blue 50




その日から、世界は変わってしまった。

波の音、風の冷たさ、太陽の熱、感じられるあらゆるものが
変わらないのに、私達がいる世界だけが変わってしまった。

いや、違う。

そんな言い方は違う。卑怯だ。

変えたのだ。私が。私が。私が!

私が、私達の世界を変えてしまった!

あなたは将来どう思うだろう?

世界を変えてしまった私を見て、どう思うだろう?


私には、責任がある。

破壊されてしまった楽園を見守る仕事。

その先を見る責任が。


もしかして、それは……
絶望と呼ぶのだろうか?

私は誰にも伝えない。

私は何も語らない。

私の罪を誰にも伝えない。

私は何も。

決して、決して、決して誰にも。


私が信じている世界は、

この、青い、どこまでも青い、この世界は、

たとえ破壊されてしまっても、

いつまでも、ここにある……。


この青く、深く、彼方へと続く道。
果てへと続く道。
決して交わることのない、道。

青く、青く……落ちてゆく……。












  <Way to The Blue 50>











思い返してみれば、自分は割と、世間一般的に見れば
不幸な人生を歩んできたのかもしれない。

母親は病弱で、子供の頃から重い病気を患っていた。
父親はカメラマンという職業事情もあったが、母親とあまり
うまくいっておらず、家に帰らない日々が多かった。

一人で過ごすことが多かった。

短い人生の中で、思い出される景色は、
前に住んでいたアパートのベランダで、一人夕暮れを見ていた事。

つまらないことを考えていた。


手元には、アルバム。

中に詰まっているのは、
父親の撮った写真。


そこには、美しい山々と夕焼けが写っている。
何枚も、何枚も。

美しい自然の風景がある。時には、動物や植物もある。

どこで撮影したか、何時に撮影したか、そういうメモに目を落とし、
高浩は小さく、笑った。


「夕暮れには毎日会うことが出来ると思っていました」


有沢高浩はそんな風に、誰ともなく話していた。

「両親に会うことは出来なくても、世界はいつも同じように、日が昇り、
日が沈み、なんとなく繰り返していく。そんな中に一人でいることが、
どこか不思議で、まるで、ええっと、現実じゃない感じがしてました」

「……そうか」


パソコンの画面から目を背けることは無いが、父の古くからの友人は
ため息を隠さなかった。

「高浩くん。君のお父さんはね、それはもう、どうしようもない奴だ」

矢藤という男は、感慨深く、低い声で。
どこか優しげにそう言う。

「有沢浩樹という男は、どうしようもない奴だった。
美人の嫁がいて、賢い子供がいて、カメラマンとしても若くて有望だった。
知名度も人脈もあったし、実際いい写真を撮った。
だが、どうしようもない奴だった」

「それは、どういう事ですか」

3冊目のアルバムを開きかけた所で、高浩は手を止めた。

矢藤も、キーボードを叩く手を止める。

「あいつは、いつでも嘆いていた。いつでもだ」
「……嘆く……?」

ああ、と、矢藤はデスク・チェアの背もたれに体重を預けて、
懐かしむように頷く。


「あいつが30ぐらいの頃か」




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




プリントアウトされた写真が、喫茶店のテーブルに散らばっていた。

「有沢」

矢藤がそのいくつかに赤いサインペンで印をつけながら、
その写真を撮った人間の名前を呼ぶ。

「ああ、どうした?」
「どうして家に帰ってやらないんだ」

打合せは、これまで何度も。

この喫茶店で。

何度も、それも何年と、繰り返してきた。

編集部が近い、ブレンドコーヒーがそれなりに美味い。
人気がない。
食い物がしょっぱくて不味いぐらいで、打合せには十分適している。

そういう喫茶店での打合せで、矢藤はそんなことを彼に聞いていた。


「どうした。突然。帰ってるよ」
「いつもどこに行ってるんだか分からんような髭面で、薄汚れた格好で、
山のように荷物抱えて、それで家に帰ってるように見えるか」
「意外に鋭いな矢藤。探偵になれよ。いい観察力だぞ」

軽口を叩く有沢浩樹の言葉を、矢藤は鼻で笑い飛ばした。

「明日の天気を当てるならともかく、昨日の天気を言えれば
気象予報士になれるのか?」
「なに、気にするな」
「気になんかしてないさ相棒。別に薄汚れてようと写真は
綺麗だからな。もしかして撮影者の姿形を見て、写真のほうが
襟を正してるのかもしれん」
「ま、そーなんだろ」

ぶっきらぼうに言いながら、有沢浩樹はテーブルの写真を眺めている。

「これ、いいだろ。蓼科山からだ。白樺湖がいい感じだろう。
天気が悪くて5日もかかった。気温なんて氷点下だぜ。
普通じゃ撮れない」

「そりゃあ普通じゃないからだろうな。確かに良い写真だ。
おい、有沢。写真のことじゃない。お前、奥方がどうなってるのか、
知ってるのか」

山男同然の髭面の男が、はっきりとわかるぐらい硬直する。

「写真集の話もあるし忙しいのは分かるが、命に関わる病気の家族を
放っておくのは、正直理解できん。小学生の子供もいるんだろうが」
「……」
「お前が取り憑かれたように、日本全国で這いつくばって写真を撮っている
姿、そして撮られた写真は、確かに誰かの心を打ってるかもしれん。
しかし、お前の家族はお前の写真を見てるのか? いや、見てないだろう。
俺がお前の家族なら見ない。見たくもないよ」

「……そう思うか」
「思うだろうな」

多少意地の悪い気分で、そう断言した。矢藤は、打ちひしがれたような
様子の有沢浩樹に、さらに言葉を打ち付ける。

「結局、困ったときに近くにいる人間が良いんじゃないか。帰ってこない奴
よりは、ずっとマシだ」


  がたん


テーブルの上のティーカップが1センチほど飛び上がり、
けたたましく音を立てた。びっくりして、矢藤が見やると
有沢浩樹はテーブルを叩いた手のひらの指を、少しだけ曲げて、
震わせていた。

「俺は、いつだって、誰かのために、やってきたつもりだった」

震えていた。

「だが、実際には誰も救えなかった。誰一人。誰一人だ! 傷を負い、
悲しみ、打ちひしがれ、未来も希望も何もかも失って、苦しんでいるのは
周囲だけだとお前も思うのか!! 俺が何も感じないとでも思うのか!!
俺が帰らないのは……!! 俺が帰らないのは……!」


有沢浩樹が、感情を荒らげたのを見たのは初めてだった。

「俺が壊してしまった世界を、見たくないからだ……!!」


激昂し、立ち上がっていた彼は、静かに座り直し、
悲しそうに笑った。

「誰も見なくていいんだ。俺が本当に見せたい人は、どうせ
見ることが出来ないんだから。だから俺も帰らない。
家にも、どこにも。そう、どこにも……」






~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





有沢高浩にしてみれば、意外な父親の一面だった。

家ではぶっきらぼうな態度しか見たことがない。どこか余所余所しく、
他人の家に来たような姿の父親。

「あいつは変わったやつだった。何年も、十何年も、一人で何かを抱えて
いるように見えた。俺はな、あいつがちょっと可哀想だったんだ。
上から目線の意見で悪いな。気を悪くするな少年」
「いえ、別に」

高浩は笑った。

「父親のことを知らなかったのは本当だし、父親の写真を見なかったのも
本当のことですし、そりゃあ、憐れまれても仕方ないです」

「いやいやそういうことじゃない。俺はな、あいつが抱えているものの
大きさに、あいつ自身が絶望していることが可哀想だったんだ。
人生において悲しいことはなにか。何だと思う?」

「……まだ16なんで、わかりません」

「そうか、少年はまだ16歳か。それなら分からないかもしれないが、
人間ってのは生きていれば、生きてきただけの何かを背負って生きるのが
自然であり、その重みを感じることが幸福になりえるのさ。なぜなら
人は死ぬからだ。死ぬときに、自分の抱えていた荷物の軽さに気づいたら
それは残酷なほどに悲しいよ。だが、有沢浩樹はそうじゃない。
あいつは重い荷物の中に、死ぬときにすら邂逅したくないようなものが
混ざっていることに気づいていた。中身についてはよく分からんが、
あいつの物言いを聞いていたら解ることさ」


薄暗い天井を見上げながら、矢藤は重く言葉を吐いた。

「あいつはおそらく、それを邂逅しながら死んだのさ」






~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




夜。

夜のまっただ中で。



小暮みずほは、夜空を見ていた。

ベッドの上に乗り、窓から身を乗り出すようにして見上げる空には、
丸い月が浮かび、輝く。

蒼い光。


降り注ぐ月の光は、青く透き通り、景色をすべて染めた。

目を閉じても、まぶたで感じられるほどに明るい。


これほどまでに美しい世界の中でも、
小暮みずほには、どこか現実とは思えない。

生があるとすれば。


あるとすれば……。



想う。

いつまで、こんな時間は続くのだろう。
そう長くはない。

時間はやがて、誰かを、誰彼を、新たな世界へと導く。

どんなに面白いゲームにも終りがある。
それは、プレイヤーである自分が終わることだ。

飽きてしまったり、時間を作れなくなったり、
そうして離れていく。
もしくは、そう。
死んでしまったり、とか。


……

……縁起でもない。

まだ死ぬ気はない。
……学校を卒業して、いい感じのニート生活を楽しむ。
そのうち好きなことを好きなだけ始める。

勉強以外の好きなことをやる。

学校を卒業して。

そして……




自分はどこに行くのだろう?

自分は……。


高浩。

そう、高浩。
翼を持つ人。

父親と同じ、翼を持つ人。

有沢、高浩。


私は、なぜ翼が見えるのだろう?
この世界が架空のものだから、そう思えるだけだろうか?

あの人に垣間見た翼は、
空へ駆け出すのを待っているようだった。


羨ましかった。


心の底から、人を羨ましく思った。

その翼から巻き起こる風は、誰に力を与えるのだろう?

本人だけなのか?

それとも、誰の……。





~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





環状8号線。


0時を回り、深夜になっても交通は全く絶えない。
むしろ、大きな音を立てて疾走するスピード違反の車が増え、
大型のトラックが暴風をまき散らす。

広い三車線の道路脇を、矢藤と高浩が歩いている。


小腹がすいたので、ラーメンでも食べに行こうと矢藤に誘われて、
外出した。


真夜中の東京は、夜でも明るい。
特に道路脇は、どこも街灯で昼間のように照らされている。

海も見えないほどの暗闇に包まれる常葉町とは違う。



「おかしなことと思われるかもしれないが」


車の走行音がうるさいせいか、矢藤は大声で叫ぶように、

「少年。なんとなく、君が来るのはわかっていた」

そんなバカな。


「2度しか出版社に行ったことないのに?」


一度目は泥酔した父親を迎えに行った時。
もう一度は、父親の遺品を受け取りに行った時。


「そうだ。高浩くんが来るんじゃないかと思っていた。まさか、
今日だとは思わなかったがね。いや昨日か。ははは」

なぜ。

「なぜかというとだな、君の父親が生前にそう予告していたからだ。
自分が死んだら、高浩くんがきっと会社に来るだろうってね。
お、ラーメン屋はここだぞ。スープが無くなってなくてよかったな」
「父親はなんて?」


無理矢理話を中断させられて、高浩は不快だった。

その話は非常に興味があった。

のれんをくぐりながら、矢藤は言った。



「何をしに来るか分からんが、もし怒っているようなら、代わりに殴られてくれ」




「……は?」


「だとさ。高浩くんが怒ってなくて助かったよ」






~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~






そんなことはわかっていた。

何年も前から、何十年も前から。
ずっと知っていた。

何故、還らない……。
過去はなぜ、還らない……。


耳の奥に残る、蒸気機関車の汽笛。


忘れられた、C62型蒸気機関車の汽笛。


まるで絶叫のようなその汽笛は、ずっと鳴り続けている。


わかっている。

この世界が壊れてしまったことに、嘆き苦しむことは。


だから私は、あえてその世界を見続けることを選んだ。

過去は還らない。


時間が戻ることはない。



《2時40分32秒 ガーガー!!》





~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





夜。

まさに、夜のまっただ中で。


高浩は、最後のアルバムを閉じた。



「……ない!!」



胸の中から溢れ出るような焦燥を感じつつ、呟いた。

「無いって……何が」


ついに、机の上で腕を組んで居眠りしようとしていた矢藤が、
ろれつの回らない声で返してくる。

「常葉町の写真が、一枚もない。これだけ探しても、一枚もない」

「なんだよ……さっき言ったろ。あいつは故郷に何か嫌な想い出が
あるから、帰ってないんだろ……そんな事、わかりきってるだろうが」

「いいえ。わかりきってません」

バン! と、アルバムの表紙を叩き、高浩は興奮した様子で言った。

「写真に興味のない俺でさえ携帯カメラで何枚かの写真を撮った。
俺はこれより美しい景色を何回も見ました。常葉町で」

「それがどーしたんだ……」

「素晴らしい風景がある場所に、プロである人が行かないはずがない。
日本全国、ほとんどの場所の写真がここにあった。それなのに、常葉町の
写真だけがない。すぐ近く。例えば……ほら、これ! 留々辺市の
写真はあるのに! こんなことはありえない。この場所には、バスぐらいで
なきゃ行けない。それなのに、常葉だけ通り過ぎるなんて!」

高浩の主張に、矢藤はぼんやりとうめく。

「そういう気分だったんだろーよ……も、俺眠いんだけど」

「他に写真は無いんですか」

「無いよ。もうここには無い。なぁ、何がそんなに引っかかるんだよ」


高浩は焦りを覚えた。
なぜかはわからない。だが、とてつもなく、心が熱くなった。

涙が零れそうなほど。

なぜだろうか。

なぜだろう。


違うんだ。そうじゃないんだ。
理由もなく否定したい気持ちになる。

……誰に?

……何を?


…………



「俺の親父が、カメラに収めることを躊躇ったりするはずがない」




言ってから、高浩ははっとした。

自分の言ったことが信じられなかった。


そんな事、今まで考えたこともなかったのに。
なぜ、そんなことを。

父親が、何を見ているかなんて。

何をしているかなんて。

そんなことを、考えたことなんてなかったのに。



高浩は、分厚いアルバムに視線を落とした。

この写真たちを見て。
自分の中で、何かが変わってしまったのか。

変わってしまったとすれば、何が?


……いや、そんなことは……今は、どうでもいい。


「だったら、カメラじゃないか。遺品にはいくつかカメラがあっただろ。
中にデータが入っていたのもあったぞ」

「本当ですか!?」

「どこの風景かもわからんし、何枚か見てそのまま……お、おい!」



矢藤の言葉が終わる前に、走り出していた。





~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





「常葉町が無くなってしまえばいい。俺はそう思ったんだ。
だからそう願った。変わってしまえばいい。何もかもが変わってしまえば
いい。地名が無くなってしまえばいい。海が無くなってしまえばいい。
山がなくなってしまえばいい。土が掘り返されて、川が汚されて、
何もかもが失われてしまえばいい。俺はそう思ったんだ。
そう願ったから、俺はそう願ったから。
あの蒸気機関車だって無くなってしまえばいい。
もっと壊れてしまえばよかったんだ。
完膚なきまで、壊れてしまえばよかったんだ。
錆びついたレールも、草だらけのバラストも、
全て消えて無くなってしまえばよかった。
そして、Railwayだって、無くなってしまえばよかった。
ようやく、その願いは叶うのか」




「俺が、死ねば」


「そうだよ。浩樹君。私はずっと守ってきた。最後に、彼に、
この景色を見せるために。あの時のまま、ずっと……」





~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





夜が明けようとしている。

長かった夜が、ついに明けようとしている。



朝焼けが照らすもの。

それはいつだって、変わらない朝の風景。



――そうではない。



――そうではない。決して。そうではない。

気がつかないだけだ。

毎日失われているものがある。
変わっていくものがある。
気がつかないだけだ。

そのことに、誰も気が付かない。

本来は、それは罪なのだ。
だから、その変化を残そうとする。

あるいは――忘れようとする。



朝焼けが照らすもの。



高浩の、震える指がなぞる、その先に。



古い父親のカメラの液晶画面に映る風景を見た。


D2Xというその古いカメラの液晶画面は小さく、よく見えるものでは
ない。それでも、その風景。光景に、高浩は目を奪われ、声を失った。



確かに、そこに、常葉町はあった。

父親のカメラに、常葉町が。

撮られたそのままで。

どこにも明かされることなく。


まるで大切な物を仕舞いこむように、

古いデジタル一眼レフの中に、

その景色が、閉じ込められていた。




本当に、ここにあった。



有沢浩樹が、常葉町に行った足跡。それが、誰の目にも触れることなく、
この場所に。

いや、

違うのかもしれない。


誰かの目に触れさせるために、そうされていたのかもしれない。


現に、こうして、有沢高浩。彼が、見ている。

この一ヶ月がなければ、決してその意味を理解することはなかっただろう。

その写真を、声を失ったままで見ている。

そう、理解できなかったはず。





高浩は床に崩れ落ち、そして、叫んだ。

あたりを一切憚ること無く、叫んだ。


意味がある言葉ではなく、ただ、絶叫。
悲鳴と同じ、絶叫だった。





朝日が照らすものは、昨日の続きではなかった。

何分。

何十分。

どれだけの時間。

壊れてしまったもの、変わってしまったもの。

それを、受け入れるだけの時間すらもない。



携帯電話が鳴り、それを、今更ながらに実感する。
変化は止められない。

電話が鳴り続ける。


ある意味では。

止められていたものだから。

もう止めることが出来ない。


電話が鳴る。鳴り続ける。



有沢高浩。彼はその時、思っていた。

自分が変わったのだと。
変わってしまったのだと。


彼にとって、時間が止まったような一ヶ月は終わった。

9月1日。

日付を巻き戻すことは、もう、できなかった。


携帯電話が鳴っている。

鳴り続けている。



止めることは出来ない。



もっと早く。気がついていたなら。

こんな結末を迎えることはなかったかもしれないのに。


過去はもう変えられない。

時はもう戻せない。



還れない。




携帯電話を耳に近づけると、一ヶ月間、ずっと聴き続けてきた
女の子の声が、聞こえた。

まるで、別次元から話しかけてきているかのように。

その声は、歪み、潰れ

壊れてしまっていた。



高浩、は


自分? は…… 俺……は……     オレは?




壊れてしまった、かっもしれない




「高浩、Railwayが、燃えてる……」



そうだ。

きっと、壊れてしまったに違いない。




<Way to the Blue 50> END

| 連続小説 Way to the BLUE | 15:05 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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Way to the blue 49



「ふぅ」

騒音を立てていた掃除機の電源を切ると、高浩はため息をついて
ソファーに身を投げた。ぼすん、という重たい音と、
わずかなスプリングの軋みがあった。

視界には、窓から入り込んでくる夕暮れの光。時刻は17時を
回ったところだった。それは、インジケーターが青く光っている
携帯電話を開いたからわかったことだ。

メールが来ている。

その内容をざっと読んでから、高浩はもう一度ため息をついた。
別にため息をつくような内容ではなかったし、一ヶ月ぶんの部屋の
掃除といっても、誰もいなかったのだからせいぜい、埃を払う
程度で構わない。何も使っていない。

何も使われていない。

誰もいない。

赤くまばゆい光は、幾すじの道になってガラスを貫き、白い壁に突き
刺さる。高浩はそれを眺める。眺めて、

手のひらを開き、光にかざし、握りしめた。

しかし当然、つかめない。沈みゆく太陽。
その光は、徐々に弱まりつつある。
世界はやがて闇に沈み、深い静寂に包まれ、泥のように溶ける。

手のひらの先にもはや、あの、青い空はない。
北海道の清涼な風の上に広がるあの青い空は、ここにはない。

この手には、ない。
もう、届かない。


ため息をついた理由は、他にある。
もっと他の。

もっと根本的な。

もっと致命的な。

数時間前を、目を閉じて振り返る。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



目覚めた高浩は、それが加なりの早朝であることに
自分自身、驚きを隠せなかった。朝の陽の光を見れば、時刻は
だいたいわかる。

6時ちょうどに目覚めた彼は、昨夜遅くまで続いた送別会の
疲れを引きずっていた。正直言って、引きずっていた。
愛想笑いもなかなか疲れる。第一、心の中には、遊花の事故のことや
みずほとの関係のつまづき――これは些細なことだが――があった。

それだけではない。

千歳はやはり、母親を探したいと思っているようだし、
万里はこの町を出て、自分のやりたいことをやりたいと本気で
考えているようだ。

いずれも、東京で。

だから東京へ帰る高浩に、その気持ちを
聞こうとしている態度が見てとれた。


そんなもの、わかるはずがない。
言えるはずもない。

食事の席には、智恋や、先刻まで会っていたみずほ、そして、
いつも笑顔のふたえがいた。

少し遠くから、光景を眺めているような感じの智恋が言った。

「東京つったって、ここと何も変わらないわよ。地面が繋がってないだけで、
岩盤は繋がってるんだから。数学的に言えば同じ平面上だし」

その例えはいまいちよく解らないが、奇妙な説得力はあった。

「そこが遠いと思う人には遠く見える。そこが近いと思う人には近く見える。
遠くから山を見たことしかない人に、山にずっと住んでいる人の見る景色が
何色か説明すんのは、むずくない? てか、めんどくさくない?」

そう続けた智恋の言葉に、高浩は心の中でささやくものを聞いた。
それは、望郷を感ずるか否か、という単純な問いだった。

だから行くなと言っているわけではない。

だから行けと言っているのではない。

自分の中に生まれる声を聞けばいい。
もしそれもできないのなら、自分に問いかけるしかない。


俺は、東京に望郷の念を感じない。

それは単純な話ではない。おそらく。
そんなに分かりやすい説明など、出来るとは思えない。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



そうして迎えた早い朝に、どこか、聴覚などが覚醒していたのだろうと
結論をつける。

Railwayの2階。彼の部屋の窓の外に、茶色のエゾモモンガがいた。

とーらだ。

彼が東京から連れてきたペットは、ずいぶん久しぶりに顔を出した。
もちろん高浩が居なかった時に戻ってきていたのかもしれないし、
やたらとなついている万里の母親の所にでも行っていたのかもしれない。

もしも帰ってこなかったら、このまま置いていこうかと高浩は
思っていた。

だが、とーらは戻ってきた。高浩が東京へ帰ろうとする、その日の朝に。


かりかり


とーらが古い木の窓枠を、前足でつついていた。その音で目が覚めたのだと
ようやく理解する。高浩は身体を起こし、窓を開けた。

「よう、とーら。久しぶりだな」

とーらはその場で、後ろ足で立つような姿勢のまま鼻をひくひくさせて、
動こうとしない。

「どうした?」

手を差し出す。とーらはいつものように、高浩の手のひらに乗って――

ということはなかった。


その手から逃げるように、走り出す。たたん、と、トタン屋根に小動物の
爪が当たる音がする。

「お、おい。とーら!」

とーらが走っていった、その先には。

とーらより少し大きい、エゾモモンガが一匹いた。

とーらは、そのエゾモモンガの周りを一周するように走ると、そのままトタン
屋根を飛び降りた。そのすぐ後を、見覚えのないエゾモモンガが追いかけて
走ってゆく。

「とーら!!」

全速力で走る二匹は、すぐ近くの林の中へと消えていった。

「……とーら……」

高浩の眼前から消えてしまったモモンガの名前を呼ぶが、誰も応えはしない。
それは、高浩にとって大変な失望感を伴わせた。

とーらは、何年も高浩と共に暮らしてきた。
ペットであり友人だ。
いなくなってしまうことなど考えられない。

……

……それならば、置いていこうなどとは思わないはずなのに。

矛盾。
俺は矛盾している……。

「とーら!!」


なんとなくわかる。
自分の矛盾に。その理由に。

急いで寝巻きがわりのTシャツの上に、ジャケットを羽織った高浩は
階段を駆け降り、ドアベルをけたたましく鳴らして
外に飛び出した。

肌寒い北海道の朝。波の音がさざめき、濡れたような風が強く吹く。

「とーら!!」

林に向かって叫ぶが、茶色い生き物の影もない。

高浩は林に入って探そうと考えたが、急いで飛び出してきたために
サンダルばきだった。雑草が繁る雑木林の中に入るのは、しっかりとした
ズボンと、長靴が必要だ。こんな格好では雑草の枝葉で切り傷を作り、
ヤブ蚊に噛まれ、朝露でずぶ濡れになるだけだろう。

Railwayにまた戻ろうとした。その時、不意に名を呼ばれた。

「高浩くん、おはよう。どうかした?」

藤ノ木ふたえが、ほうきを持って立っている。
いつものようにエプロン姿で。

おそらく、高浩が外に出てきたときにはもう居たのだろう。
高浩は全く気づかなかった。夢中で。

それで彼女に、自分の見たものを説明した。

「もしかしたら、とーらは帰ってこないんじゃないかと思ったんだ」

それは、理由のない危惧だったのだが。
というより、悪く言えば、単なるあてずっぽう。

そうだ。そんなあてずっぽうを言うのは……
単に不安を煽っているだけだ。

どうしたい?

不安を煽って、どうしたい? どうされたい?
高浩は、心臓が震えているような気がした。

そして。
それほど間を置くことなく、ふたえが頷いたので、驚いた。

「そう。とーらちゃんは、戻ってこないかもしれないのね」

「……!」

高浩の言ったことを、単にふたえは繰り返しただけだったが。
てっきり否定されたり、慰められると思っていたから、高浩は
驚いた。きっと慰められるから、ふたえには何も言わない方がいいかと
思ったぐらいだった。

しかし違った。

「きっと戻ってこないわね。好きな相手を見つけて、ここで暮らすと
決めたのなら、それはきっと、仕方のない事ね」
「いや、ふたえさん。俺は、その……とーらは……」

言葉を探す。
ためらいながら、混乱の中で、適当な言葉を探す作業は骨が折れる
ものだった。

「俺の大切な友人だったんだ」

まるで言い訳でもするかのように。

思い起こす。
小学生の頃に、今のとーらと出会った。まだ小さかった頃から、一緒だった
エゾモモンガに、救われた。

「父親がいつも出掛けていて、そんな中で母親は病気で、病院に入ってしまって、
家では一人だった。それでも、一人じゃなかった。とーらがいたから」

長い闘病生活で母親は死んだ。最後は自ら命を断って。
父親も同じように、自分で死を選んだ。

「今、俺に家族は、とーらしかいない。いや、な……、何言ってんのかな、俺」

慌てて、左手で頭をかいた。髪の毛は寝癖で立っていた。
ふたえは笑って、手を伸ばしてくる。

ほうきを持っていないほうの手で、寝癖のついた頭を撫でられる。

「とーらちゃんは、本来いるべき場所へ帰っただけなんだよ。高浩くん」

背伸びをしたふたえに。まるで母親か姉のように。

「本来いるべき場所に帰ること、それは止められないんだよ。
寂しいね。悲しくなるよね。でも、それは、別れだから。
仕方のない事だから。別れは、いつだって悲しいものだから。
そして、人にとって別れは、必ず訪れるものだから」



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



そう。本来いるべき場所へ。

高浩は帰った。


自宅がある西荻窪のマンションの7階。708号室。
小ざっぱりしたリビングに。

白い壁紙。青いソファー。太陽と同じ、オレンジ色のカーテン。
毛足の長い白いカーペット。部屋のすみにある小さな仏壇には、
二つの位牌が並んでいる。

8月も終わろうとしているが、部屋の中の熱気はいまだに
夏の暑さを残す。エアコンをつけたが、熱は窓から飛び込んで
きていた。

ここは常葉町ではない。

遥か遠い、何もかもが違う場所。


高浩は、帰ってまず、たまった郵便物を整理した。そして、部屋の
掃除をした。それだけで夕方になってしまった。

いま、ソファーに寝っ転がって天井を見つめている。
シーリングファンがくるくると音もなく回っている天井を。

携帯電話をテーブルに置き、ため息をつく。それは何度目だっただろう。
メールは友人の戸田茜からだった。
画面には、他愛のない事が書かれていた。

明日からは、以前と変わらずに学校へ通い、そして、
以前と変わらずにこの部屋へ帰ってくる。一人きりの部屋に。

もう、家族同然の小さな友人はここにはいない。
激しい喪失感に、思いの外打ちのめされていたのかもしれない。

いや、それだけではない。


帰りのバスに乗る直前のことも、今の気持ちを沈めさせていた。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



町の閑散とした小さなバス乗り場には、滅多に見られないほどの
人が集まっていた。

木桧みずほと、吉野千歳、月方万里。川井智恋。
そして藤ノ木ふたえ。なんと5人。

このバス乗り場にいるのは、普段は雀とカラス、何も入っていない
郵便ボックスを開けに来る郵便局員。それぐらいだ。

朝の8時少し前に、札幌へ行くバスがやってきた。5分後には発車する。
どこかこの風景に似つかわしくない、近代的な、青いラインの入ったバス。

「それじゃ、そろそろ」

そう切り出したのは、他ではない、高浩だ。
同年代の友人と呼べる人たちとのお喋りは、名残惜しさを残す。

あまり、帰ることの話にはならない。不思議と、これから、
帰ってから何をするか、どうするかなどという、むしろ一番
重要そうな話は、全く出てこなかった。

まるで、明日が、またここで続きそうな感覚。

振り返りそうになる。
だから、そう切り出した。

「そうだ、あんたさ」

掘っ立て小屋のような待合室の木の椅子から立ち上がった高浩に、
声をかけたのは、木桧みずほだった。

「貝殻持ってる?」

そう言われ、高浩は一瞬記憶を探した。

「まさか捨てたんじゃないでしょーね」
「いや、持ってるよ。……ほら」

ずいぶん時間がかかって、抱えている肩掛けバッグのポケットから、
浅紫の小さな貝殻を取り出した。丸めたティッシュに包んである
それを開いて見せる。

一ヶ月前に、砂浜で彼女と言い合いをした時に貰ったものだ。

「なんでそんなゴミみたいに扱ってるわけよ」
「いや、適当な箱とかがなかったし」
「でも持ってたんだ。持ってなかったら代わりに、変な色の貝も
拾ってきてたからあげようかと思ってたんだけど、じゃあいいや」

みずほは、手に持っていた学生鞄から、非常に小さい木の箱を取り出して
高浩の手を掴み、手のひらに乗せた。

「その貝、これに入れればいいんじゃない」
「これは?」
「わたしが作った箱」
「作ったのか」
「うん」

それはかなり古い木材を小さく切り、接着剤で箱の形にくっつけたもので、
色味は茶色というか、黒に近いぐらいにくすんでいた。
表面はざらざらしており、どこか、既視感がある。

「これ、どこの木で作ったんだ? どうも見たことがある気がするんだが。
なんというかこの落ち着いた風合い。古い、くすんだ色の木。どこかで
見たような……」
「よく気づいたわねー!」
「?」
「Railwayの高浩の部屋の壁の木を一枚剥がしたの」
「お前何してんだよ!!」
「思い出になっていいじゃない?」
「良いわけあるか!!」

そんなやりとりを見て、くすっ、と、笑ったのは、藤ノ木ふたえだった。

「いいの。みずほちゃんは高浩くんのことを思って作ったんだから」

「え」
「!?」

同時に声を上げて、硬直する高浩とみずほ。珍しく、口許を押さえて
笑いながら、ふたえは言った。

「ふたえちゃんはね……本当はずっと前から、そのプレゼントをね」
「は!? ふたえさん!? 何言い出しちゃってるんですか!?」

大声を上げて、みずほがふたえの言葉を遮る。真っ赤になって。

「私、工作は好きだから! 他になんにもないわよ! さっさと行けば」

そして、ぷいっと後ろを向いてしまう。

「でも」
「いいの。Railwayは、いずれなくなってしまうのだから」

高浩は、そう言って笑った藤ノ木ふたえを、それこそ……
網膜に焼き付けるように、見ていた。

「誰かに何かを遺せるなら、Railwayも私も、きっと」


その時、大きなクラクションが鳴り、

彼女の言葉は聞き取ることができなかった。


「高浩! 私はきっと、もう一度会う。高浩にも、母親にも」
吉野千歳の別れの言葉も。


「卒業したら、連絡します。いつか、きっと」
月方万里の別れの言葉も。


「有沢研究員。また来いよ。手伝いに」
川井智恋の別れの言葉も。


「もう来なくていいからね!!」

木桧みずほの言葉も。
どこか空々しく感じる。

胸が熱くなる。
かきむしられるような想いがある。
返す言葉が出てこなくて、なぜか、涙が溢れた。

人にとって、別れとは。
いずれ訪れるものだから。


違和感。


その時、
バスに乗る瞬間に感じた違和感。

振り返った高浩の目の前で、バスのドアは閉まった。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



日常が訪れる。

誰にでもある日常が。


天井を見上げながらそれを感じた。
今。これまでの一ヶ月間を思い返しながら。


両親の死が切っ掛けだった。

なぜ両親が自ら死を選んだのか。
それを探しに常葉町へ。

結局は、何も見つけられなかった。

テーブルに置いてある、貝殻と箱。
常葉町から持ち帰った、唯一のもの。

それ以外に、何も見つけられなかった。


……

…………


………………

……

……本当に?

「本当に、それだけだったのか?」


最後に感じた違和感。

あれは何だったんだ?

高浩はもっと深く思い出そうとする。

夢のように過ぎ去った一ヶ月間を。


Railway。

青い空。

青い海。

あの場所で朽ちていくのを待ち続けた蒸気機関車。

残された想い。

未来へ繋ごうとする想い。

失うことを恐れる想い。

遊花が感じた悲しみ……。

それを守れなかった自分……。

それを忘れてしまった遊花に……訪れる世界。

失うこと。忘れること。

別れ。


…………

……


「!」


高浩は、ソファーから体を跳ね起こした。





~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



オフィスには、わずかな範囲だけ灯りが点っていた。

ごちゃごちゃとしたデスクが4つあるだけの小さなオフィスだが
それにしてもか細い明かりだ。室内は殆ど真っ暗と言っても
いい状況だったが、デスクライトだけは点灯していた。

たった一人が、そこで働いていた。
矢藤功(やとう いさお)という、男だ。

ノートパソコンの光が、無精髭の生えた彼を青白く照らしている。

彼は40過ぎの男で、知っている限りでは、結婚して子供もいる
歴とした家庭人だが、21時を過ぎても平然と会社に残っている。
別にその家庭の中で、どんなことがあるかは知らない。
帰らなくていいのだろうか、と思ったとしても。

そう、高浩にしてみれば、それほど興味のある話ではない。

「矢藤さん」

オフィスのドアの鍵は開いていた。
高浩が呼び掛けるまで、矢藤は気づかなかったようだった。

「ん? なんだ、高浩君じゃないか。久しぶりだな。どうした」
「……」

高浩は、呼吸を整える。
ここまで、気がつけば早足だった。都会の夜の中を、
どこか懐かしむ余裕を持ちながらも。

のんびりと散策する気にはなれなかった。

「散歩していたら、つい」

矢藤は高浩の、トレーナーにジャージという姿を見たようだった。

「君の家からこの高井戸の会社まで、ついという距離じゃないぞ。
40分はかかるだろう。電車かタクシーで来ればよかったのに。
連絡してくれれば、迎えにも行ってやった。すぐ近くだ」
「そうですね」
「……」

矢藤という男は、ノートパソコンの画面から顔を背けた。
高浩に向き直る。

「葬式以来だな。元気してるか。何も連絡しなくて、すまなかった。
何分仕事が忙しくてな。今度新しいコーナーの担当になって、その
記事が明日までなんだ。これは言い訳じゃないぞ」
「わかってますよ」

高浩は苦笑した。

「全く君は子供らしくないな。少しは大人の嘘に腹を立てたらどうだ。
社会に出たらみんな嘘つきばっかりだからな。言いなりになっちゃ、
幸せになれんぞ。俺みたいに。思ってもみない、適当な文章を書いて、
ページを埋めて、とんでもない嘘つきに振り回される。高浩君は
利口だし、カメラを撮るしか脳のない馬鹿や、心にもない記事ばかり
書く三流記者を反面教師にするのがいいな」

矢藤も自分で言いながら笑っている。

「頼みがあって来ました」
「頼み?」

彼は無精髭が目立つ顎を、右手でごりごりと撫でた。

「高浩君が困らないように、何かあれば頼むと、責任感のかけらもない
手紙を寄越して、仕事をほっぽって死んでしまった奴の手前、
大概の事は聞いてやれるぞ。そもそも、今の記事はあいつの写真が
無くなったから新規に立ち上げざるをえなかったという内輪の話も、
奴の息子である君には関係のない話だ。何かな」

「カメラを撮るしか脳のない人の事です」
「お前の父さんがどうした。財産なんて探しても無駄だと思うぞ。
金に縁の無いことに関しては俺と同レベルだ。いや、俺より悪い」

高浩は、首を横に振った。

「父親の写真、矢藤さんが持ってるんですよね」
「まぁ、あいつが他の出版社に売ったものは知らないが、一応長い
付き合いで買い取った写真は膨大だ。それが?」
「何年前の物からありますか?」
「ざっと十数年かな」
「それを見せて戴くことはできませんか」
「写真を……? まさか……全部!?」

矢藤は、身を乗り出して聞き返してきた。だが、高浩は頷く。

「そうです。全部」
「おいおいおいおい……、無茶だろ。何時間かかるかわからんぞ?」
「朝まででも」
「おいおいー俺を帰らせない気かよ。うちのママさん怖いんだぞ?」

高浩は、
心の底から、願う。

「ご迷惑を掛けないようにします」

土下座をしてでも。

「お願いします」

その場に両手をついて、矢藤の足元に頭を下ろす。
両手と額が床に触れる冷たい感触。

生まれて初めて、土下座をした。
それなのに、むしろ慌てた声を上げたのは、矢藤だった。

「お、おいおい!」

すぐに高浩の小脇を抱え、立ち上がらせる。

「何やってるんだ。馬鹿だな! 頭ってのは目上の人間に下げてこそ
意味があるもんだぞ! 俺なんかに下げるな! たかだか写真ぐらいで、
そんな大袈裟な。み、見たいだけ見ていいから!」
「俺は……」

高浩は、ひどく、傷ついていた。
どこかを怪我したわけではない。

ただ、傷ついていた。激しく。心が傷ついていた。
まるで空隙でもできてしまったかのように。

泣いてしまう。情けないと解っていても、涙が出て、止まらない。

「何も知らなかったんです……!! 父親のことも、母親のことも!」

膝をついたまま、ふさぎこむ。
こぼれた涙が、汚れた床に落ちる。

「父親の写真だって見たことがなかった。母親の過去だって知らなかった。
それでも、今からでも、戻りたい……!!」

それが、願い。
大人びている、そう言われてばかりだった高浩が、

初めて願った。
叶わない願い。

夢を。



「過去に時間を、戻せるなら、戻したい……!!」




過去しかない。

この世界に残されたものは、過去しかない。


高浩はそれに気づいた。

死んでいった人たちに未来などない。

過去しかない。


残された人たちは、その過去に触れる権利がある。

『願えば』

「お願いします……!」



心から『過去』を願えば。

その中にはきっと、未来がある。




Way To The Blue 49 END

| 連続小説 Way to the BLUE | 23:04 | comments:1 | trackbacks(-) | TOP↑

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